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​《Essay》

さあ、行こう留学だ!

第1話 はじめに

留学、最近「駅前留学」なんて言葉も流行っているけど、やっぱり狭い部屋で一週間に一度しか会わない英語の先生と会話したって、本当の留学の醍醐味なんて味わえない。留学の楽しみは、生活体験そのものだからね。

外国でしか勉強できない内容なんて、今やインターネットで何でも手に入れられる世の中ではほとんどないんじゃない?それでも多くの人が「留学」って言葉に心をくすぐられるのは何故なんだろう?それはきっと日本人の中にある『本能』のせいじゃないかな?だって、日本は海で囲まれていて、私たちの祖先の多くは船に乗ってこの土地に着いたに違いないからね。その冒険心がDNAに刷り込まれているんだよ、きっとね。それに正直になったっていいじゃない。

外国は、言葉が違うだけじゃなく文化も違うんだから、そこで生活すればそりゃいろいろある。多分、留学経験だけじゃなく、海外旅行(パック旅行はだめだけどね)をしたことがある人はみんなそれぞれに「思い出」があるはずだ。楽しい思い出や、苦い経験、恥ずかしくて思い出したくもないこと、等々、その人たちの話を聞くだけでも、楽しいもんだ。

でも、どんなに話を聞いても自分の経験じゃない。やっぱりその場にいないと。そう!当事者じゃなければ、単に話しを聞いたって、自分の「実」にならない。僕がこの本を書こうと思った理由は、その当事者に「君」にもなってもらいたいからだ。

世の中は物騒だ。


テレビをつければ外国でのテロや、銃の乱射やらで多くの罪のない人が亡くなったりしている。だから、留学をする君だって、はっきり言って銃で撃たれて殺されるかもしれない。でも、世界中のどこにいたって結局同じことなんだよね。怖がっていて家の中に閉じこもっていて長生きしたって、そんな人生つまらないじゃない?それに、本当に長生きできると決まったわけじゃないんだから、心を開いていろいろな人に会って、いろいろな経験をしようじゃない。

世の中には多くのマニュアルがあって、留学に関しても本屋さんに行ったら山ほどデータがころがっている。確かに参考書としては有用だから、ある程度は目を通した方がいいけど、でも受験参考書と同じように、その参考書を丸暗記しても、実際にその問題が試験に出てくる可能性はほとんどないのと同じで、そんなものはあくまで「参考」だからね。だから、この本は参考書にするつもりは全然ない。僕の実体験に基づいた「教訓書」だと思って読んでくれればありがたい。

この本を手にしている君は、間違いなく「留学」に興味を持ってくれているはずだ。期待とともに不安な気持ちがあるのも事実だろうけど、それも数年後に帰国してきたときには良い思い出になるものだからね。これは保証するよ。

 

君が帰ってきたら、「私はこんな経験もした!」って書いてもらいたいね。

                                                                                                            [1999年10月7日発行]

第2話 英語のこと始め

概して日本人は、英語を多少は読み書きできても聞くことができない。留学生にとっては、これはとても大きなハンディーキャップだ。もちろん、聞けないってことはまともに話せないんだから、コミュニケーションが取れない。

コミュニケーションが取れないって、辛いもの。
たとえてみれば、「飼い犬」になった気分だ。ご主人に連れられて散歩に出かける。それなりに楽しいのだけれど、ご主人が近所の人と楽しそうに会話をしていても、何を言っているのかわからないから、その輪に入れない。時折、頭を撫でられ「尻尾を振っている」…。結構みじめな気持ちだったりする。

留学初期の頃は、「何で理解できないんだ!もう何ヶ月も生活しているのに!!」という焦りが重なってストレスに成りがちだ。ぼくも、2~3ヶ月経った頃、かなり落ち込んでいた。

でも、ひょんなことからその不安を吹っ切ることができた。

あれは、ぼくが通っていた大学を卒業して、他の州の大学院に通っている先輩が恩師の先生に会いに来たときのこと。留学新人の私も呼んでもらって、先生の家でパーティを開くことになった。彼らと先生は楽しそうに会話(もちろん英語で)しているのだけど、ぼくはニコニコしながら、テーブルに向かっているだけ。さすがに、日本人の話している英語なので、内容だけは理解できるのだけど、その「会話の輪」に入ることが出来なかった。

そこで、「そんなに会話が出来てうらやましい」って半分お世辞も込めて、その先輩に話したところ、先輩はかなり冷たく返事を返してきた。

「当たり前でしょ。あんたより、何年長くアメリカで生活をしていると思っているのよ!」

結構ショックだった。
慰めの言葉をどこかで期待していたぼくは、頭ごなしに叱られた気がして、言葉を失ってしまったのだけど、反面、何か吹っ切れた気がした。なんだ、まだ俺は数ヶ月しかアメリカで生活していなんじゃないか!そう思うと不思議なもので、出来なくて当たり前と開き直って、いつもより落ち着いていることが出きるようになり、焦りがなくなった分、ヒヤリング能力が向上し、結果、自然と少しずつ会話の輪に入ることができるようになってい
った。

言葉なんてそんなもんだ。

ちなみに、経験上、英会話をもっとも習得しやすい方法を教えてあげよう。何事にも、レベルがある。だから、始めは背伸びをして、高いレベルの人の会話に入ろうなんて考えてはいけない。初級コースの人にとって、一番いいのは、外国人、つまり英語圏以外の国から来ている留学生の英語を聞くことだ。

 

彼らの英語は一般的に非常に判りやすい。
スラングや、略語を使うこともないし、多分ボキャブラリもほとんど日本人留学生と同程度だ。それに、ゆっくり話すから理解しやすい。でも、そんな彼らの英語をアメリカ人は理解しているのだから、はじめからアメリカ人の発音で頑張ろうなんて思わず、そのあたりから「通じる英語」をしゃべるようにするといい。かなり若いころならまだしも、大学あたりから留学しても、脳みその柔軟性は失われているから、無理をせずに、まずは開き直ってみることをアドバイスしたい。

ただ、僕の記憶によればアラブ系の人の英語はちょっと発音に癖があって、口の中でもごもご話す人が多く、あんまり彼らの英語は参考にならないかもしれないので、要注意。

ちょっと脱線するけど、アラブ系の留学生はすごい!
なんせ、お国では酒はだめ、女はだめ(女性の皆さん失礼な表現許してね)なもんだから、アメリカに来るとこれが狂うわけだよね。国費留学の連中が多いんだけど、一度アメリカの「自由」に慣れてしまうと国に帰りたくないらしく、結構卒業間際に学校の先生に「アメリカに残るためにはどうしたらいいか?」って質問をする連中が多いって聞いたことがある。

でも、「あんな英語でどうやって?」と質問したくなるような、美人の彼女を連れているのを見ると、どうせ俺は「チンケな東洋人さっ」て思っちゃったりしたもんだ。オハズカシイ…(f^^;)

                                                                                                          [1999年10月14日発行]

第3話 こちとら、日本人だい!

幕末、勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったころ、日本人が英語を流暢に話せたなんて思えないでしょ?なんせ、勝海舟自身だって、生計を立てるためにオランダ語を教えていたとき、ある生徒に「先生よりもっとオランダ語のうまい人がいる」って言われ、「そいつを紹介しろ」って、自分の学校の先生にスカウトするくらいだから、いわんや英語なんてレベルが知れている。

でも、当時の日本人が英語を話すとき(外国人と話すとき)躊躇していたとは思えないでしょ?武士のプライドがあったからね。独学で勉強した発音を駆使して、どうどうとコミュニケーションをとろうとしたはずだ。

祖父母が明治時代にアメリカに移住した、とおっしゃる方とお話をする機会があったのだけど、いろいろと話をしている内に、大変驚いたことがある。それは、日本の武士に対して、当時アメリカでも尊敬の念がかなりあったということだ。文武両道で、礼儀正しい、そんな文化を持った人間に対して、言葉の違いを越えて「礼をつくした」なんて、なんと素晴らしいことだろう。

太平洋を隔てて、西洋文化と対極にある東洋文化。情報の少ない当時、アメリカ人にとっては理解しがたい文化だったろうに、武士の文化に対して尊敬の念を持てるアメリカの「懐の深さ」がぼくはとても好きだ。もちろん、当時の移民の人達の生活は楽ではなかっただろう、それでもきっと祖国の誇りに満ちて日本人の名に恥じないように努力をしていたのだろうことは容易に想像がつく。彼らはきっと英語を流暢に話せなかったろうけど、きっと何か通じるものがあったに違いないよね。

言葉なんて、要はコミニュケーションのツールの一つでしかないんだ。

会社に入ってから、大きな展示会(以前はよく晴海でやっていたけど、今は幕張メッセや、東京フォーラムとかでの展示会をイメージしてほしい)に説明員として立っていると、外国人が近寄ってきて、英語で質問してくるケースが多い。そんなとき、英語に自信のない人は「あたふた」して、英語の出来る人を探しに回るのだけど、僕はこれっておかしいと思っている。

だって、ここは日本で、この国の公用語は「日本語」なのだから、この国に来て日本語で話す努力もせずに英語で話し掛けてくる方がおかしい。自信を持って、まずは「日本語で」挨拶をすべきだ。その方が、あたふたしているよりも、立派に見えるものだ。そんなに、英語が話せないからと言って自分を卑下する必要なんてないと思う。その後に、「ジャストモーメント」と言って英語の使える人間を呼べばいいんだ。これって、国際社会ではとても重要なことだと思う。

ただ、英語はアメリカやイギリスの言葉としての意味合いではなく、エスペランド語(ポーランド人の医者が創案した人工的な国際語。世界中の人がコミュニケーションをとるための共通補助語。全然普及しなかったけど…)的な要素を持ち始めているから、英語で話し掛けてくる方も悪気があるわけでもないんだけど、問題はそれを受け止める私たちにあるんじゃないかと思っている。「英語さえ判らないおろかな日本人」と自分のことを卑下するのは止めようじゃないか!

幕末のころの日本人のように、自分の国の文化や日本語って言葉に自信を持っていればいいんだと思う。しっかり「日本語」で挨拶をする君に対して「このバカ!」なんて態度を取って帰るような外国人は、将来絶対いい客にはならないから、最悪そうなったとしても、「厄払いをした」と思っていれば十分だ。

もちろん、説明は相手が理解しなければ何の意味もないわけで、それを無視して話し続けることはナンセンスだけど、そういう気持ちで接すれば、単語だけ羅列させただけでも、結構相手に伝わるものだ。必要なのはプライドだよね。(^^)v

                             [1999年10月21日発行]

第4話 保険には絶対入っておくこと!

旅行に出かけるときに、昔の人はよく「水に気をつけて」と言ったものだ。昔の人の知恵だよね、これって。若いときって、全然気にせずにいるけど、これはとても大切。水なんて世界中同じと思っていたら大違いだからね。確かにどこの水も無色透明、無臭、味なしではあるけれど、目に見えないだけで、中身が全然ちがう。

たとえば、ヨーロッパの水は硬水。アメリカや日本の水は基本的に軟水。

最近は日本茶もティーバックがあるから、海外に旅行に出かけてもすぐに日本茶が飲める、ありがたい話だ。そこで、ヨーロッパ等、硬水の地域に行く機会のある人に是非試してほしいことがある。たいした事ではないので、化学の実験だと思って好奇心を持ってトライしてほしい。

それは、お湯を沸かして、その中に持って行ったティーバックをカップにしばらく置くことだ。(?_?)

多分10分もしないうちに、誰かがタバコでも中に入れたんじゃないかと勘違いするほど、茶色くなって、その上に膜がはってしまう。ヨーロッパの人が柑橘系のレモンをよく食べた理由は、この石灰質が体にたまるのを防ぐためだとも言われているくらいだ。

それじゃ、アメリカの水は日本と同じカテゴリーだから大丈夫だろうと思ったら、これもちょっと違う。化学的にどうこうというわけではないけど、体力の落ちているときに違う土地の「生水」を飲むと体調を悪くする。下痢をしたり、気分が悪くなったり、理由もなしに体がだるかったりするから大変だ。

それに、水道水の水をそのまま飲める国だって世界中でみたらとても少ない。
ちなみに、ガンジス川のあるインド。大体見当がつくだろうけど、気をつけないと大変。ある友人が仕事でインドへ出張に行ったときにホテルに置いてあったミネラルウォータのビンを見て驚いたそうだ。なんと”virus free”と書いてあったのだそうだ。つまり、彼らの感覚では「細菌」が入っているかどうかが、ミネラルウォータの基準の一つだってことだろう。(f^^;)

余談だけど、私の勤めている会社の人の若い頃(30年近く前)、海外へ、それも超未開の地へ出張に出かける時の苦労話を紹介したい。もちろん、そんなアフリカの奥地や、インドの秘境にまともな病院があるわけがない。だから、病気になったら大変なことになる。現地で病気にならないように気をつけなければならない。

そこで、何をしたかというと、人間の持っている「自然治癒力+免疫力」を最大限に活用して、体を「現地化」させるのだそうだ。でも、この方法はあまりにも過激だから、皆さんにはお勧めしないので、くれぐれも試さないでほしい。

具体的にはこうだ、まず現地の飛行場へ到着する。少なくとも、飛行場があるくらいだから、病院の一つや二つはある。ちょっと安心して、長旅の体の疲れを2、3日ゆっくりして取るのだそうだ。その後が驚異なのだけど、体力が戻ってきたら、現地の水をがぶがぶ飲むのだそうだ。(@_@)

当然、熱が出たり、下痢をしたりと大変なことになる。そして、病院へ行って医者に体を治してもらうのだそうだ。この期間の辛さは、七転八倒だそうで、ベットの上でのた打ち回ることもあるとのこと。

しかし、数日もすると、体の「自然治癒力+免疫力」で、回復するのだそうだ。
すると、何と体は「現地化」してしまい、どこに行っても大丈夫状態になる。
…とのこと(^^;)

ここまでして、仕事をしたのが私には信じられないけど、高度成長期を支えた日本のサラリーマンは強かったんだろうね~。さてさて、いずれにせよ、ここはお年寄りの忠告をよく聞こう。さすがに細菌の入った水は、どれだけ長くそこに滞在してもやっぱり「やばい
」けど、普通の水なら(何が普通の水だか定義は難しいけど)、そこに3ヶ月も滞在したら、体に自然に抵抗力がつくから、大丈夫。それまでは、ちょっと気をつけよう。

それから、この三ヶ月という期間は一つの大切な目安になる。
緊張の糸が緩むせいか、それとも体力的に疲れが出る頃だからかは不明だけど、三ヶ月を過ぎた頃に体調を崩しやすい。これは、どんな薬を飲んでも治らない。せいぜいビタミン剤や点滴で栄養補給をすることしか手はなく、数日間安静にして体力が戻るのを待つしかない。体調を崩すってことは、他の国での生活が肉体的にも、それなりに大変だってことだろう。

さて、外国で病気になって頼りになるのは、お金だ。
どんなに素敵な友人がたくさんできても、病気だけは治してくれない。やはり、お医者さんに診てもらう必要がある。それには、お金が必要だ。当たり前かもしれないけど、日本で病院に行ってもあまり大きなお金を支払わなくていいのは、健康保険という制度に入っているからだ。もしも、健康保険に入っていなかったら、今払っている金額の何倍ものお金を払う必要が出てくる。つまり、外国でお医者さんにかかったら、とっても大きなお金が必要ってことだ。

ぼくも、アメリカにいる間に数回病院に行くことになった。
一度目は「アリに背中を刺されたとき」、それから何度かの「食中毒(食あたり)」、「腰痛」、「風邪」、「脳震盪を起こして検査したり」等々、たった4年間だけでこれだけ病院にお世話になった。(一度は、救急車を呼んだこともある)

救急車だって有料だからね、アメリカでは。
だから、絶対に「保険」に入っておくべき。保険会社各社から、いろいろな海外旅行保険が出ているから、出かける前に加入しておくように。それだけで、安心していられるからね。年間2~3万円は掛かるけど、実際に病院にかかったらもっと掛かる可能性が高いから、本当に安いものだよ。それに、使わなくてすむならそれに越したことはないからね。

最後に、留学する前には歯の治療だけは済ませておこう。歯だけは保険対象外の場合が多いから、この辺も要チェックだ。生身の人間は、転べば怪我もするし、へそを出して寝ていれば風邪もひく。家族に守られてバランスの取れた食事や、生活習慣なんて、留学先では期待できない。自己管理がとっても重要だから、まずは「快食、快眠、快便」。そして
適度な運動。でも、病気にかかったら無理せずに病院に行こう。

そういうことだって、大切な体験になるからね。

たかが数万円をケチらないようにね。

P.S.
イギリスでは、ちょっと制度が違って、町医者制度があるため、ちょっとした病気ならたしかほとんど無料だったと記憶しています。いずれにせよ、保険には忘れずに入っておこう!

ちなみに、日本で入り忘れても、現地で旅行者用保険があるので、忘れた人は元気な内に加入しよう!(^^)v

                             [1999年10月28日発行]

<第5話 人情だよな~>

ニューヨークの地下鉄は、危ないことで有名だ。でも、ニューヨーカーの足として使われているのだから、路線を選んだり、時間帯を気にすれば、ほとんど問題はない。日本ほどではないにしろ、通勤ラッシュだってきちんと存在する。ただ、落書きだらけの車両と、ちょっと電灯の数が少なく、鉄骨やコンクリートむき出しの駅が、その危険地帯のイメー
ジをどうしても抱かせてしまう。

旅行に出たら、分けが分からなくても、とにかく現地の人たちの交通手段を利用して出歩くことを勧める。日本国内だって、ちょっと知らない土地に行くと、どうやって目的地へ行ってよいやら分からないことが多々ある。ましてや、海外。地名も聞いたことのない場所なのだから、もっと大変だ。

でも、あえて公共の交通手段を使ってみよう。
すると、当然迷う。迷えば、どうしたって誰かに助けを求めることになるから、コミュニケーションをとることになる。不思議とそういったことで、人の温かみに触れ、旅の思い出になる。

「自分は○○に行きたいのだけど、駅の場所を教えてほしい」。
「電車賃はいくらだ?」等々、質問してみよう。

すると、君の戸惑い具合で、駅まで連れていってくれたり、切符の買い方まで教えてくれる人だっている。世界中、もちろん悪い連中もたくさんいるけど、基本的にみんな優しい。それを感じることだけでも、旅の価値はあるし、自分の中の優しさも育むことができる。

ちなみに、ぼくの社会人になってからの経験だけど、なかなか面白い話しを紹介しよう。あれは、オランダにチューリップを見に行ったときだ。「地球の歩き方」を片手に、イギリスからフェリーに乗って一路アムステルダムへ向かった。途中、オランダ人の女の子と友達になったり、旦那さんがアメリカ人で、奥さんが日本人の若いカップルと仲良くなったり、たった数日の旅行だったけど、いい思い出を作ることができた。

オランダでの交通手段は、もちろん電車とバス。
美しい田園風景や、一面のチューリップ畑を楽しみ、イギリスに帰国する前日は田舎町にある安いホテルに泊まった。たまたま、最後の日はちょっと小雨が降って少し肌寒いあいにくの天気だったのだけど、それでも、数日間の楽しい思い出で心はウキウキしていた。

朝8時ぐらいの田舎の駅は、まったく人の気配がなく、のんびりとしていて、線路に咲いている雑草たちが、朝もやにしっとりしていた。

電車を待っていたぼくは、ホームのベンチに座り、歴史のありそうなその駅の雰囲気を楽しんでいた。しばらくすると、やっと一人のおばさんがホームにやってきて、隣のベンチに腰掛けた。

旅に出ると心がなごむせいか、その知らないおばさんにも「ニッコリ」して「ハイ!」と挨拶をし、再びまわりの風景を眺めていた。4月とはいえヨーロッパの春はまだまだ寒く、小雨のせいもあって息が白くなっていた。もちろん、隣のベンチに座っているおばさんも寒そうにして手をこすったりしていた。

すると、そのおばさんぼくに話しかけてきた。

「○△□×、△○×!」…
そのおばさんはきっとオランダ人。多分、オランダ語を話してきたのだと思う。イントネーションや発音の感じから、ドイツ語っぽい話しっぷりなのはわかるのだけど、英語以外の外国語を知らないぼくは、何を言っているのかさっぱり分からない….はずだった。

でも、なんとそれが理解できたんだ!
おばさんは、ぼくに向かって「寒いわね~」と言って来たと感じた。
ぼくは、何気なく日本語で「寒いですね~」と返事を返すと、おばさんは続けて駅のホームにあった個室の待合所を指差して「あそこに入りましょう、寒いから。私、駅員に交渉してくるから。」と言ってトコトコと駅長室にまで歩いて行ってしまった。おばさんは、間もなく戻ってきて「ケチよね~、すぐに電車が来るから開けてくれないって言うのよ。全くひどいわよね!」と言っていた。….多分。ぼくも、「仕方ないね、我慢しましょう。」とやはり日本語で答えた。

その間、ぼくの相槌も、返事もすべて日本語だったのだけど、おばさんもぼくの話していることがわかっていた様子だった。とても不思議なことだけど、先入観を取り除いて、心と心を触れ合うと、言葉の違いなんてコミュニケーションの妨げにはならないんだよね。

これは、本当に貴重な体験だった。君も留学したら、是非どんどん知らない土地に足を運んで、人の心に触れてほしい。

さて、話しを元に戻すことにしよう。
ニューヨークの地下鉄内部で、強盗にあったとか、強姦されたとか、めちゃくちゃ悪い情報が世の中を横行しているけど、始めに書いたようにそれも事実かもしれないけど、ほんの一部の出来事だ。だって、日本だって見方によっちゃ、世界中で最も危険な地下鉄だからね、あのサリン事件以来。


悲しいけど…。

その地下鉄で、なんとも人情を感じさせる「事件」があったそうだ。それを紹介しよう。

彼は、アメリカに滞在している日本人。ニューヨークに夢を追いかけてやってきた。しかし、世の中そんなに甘くない。現実の生活に追われて、日々貧しい生活を送っていたそうだ。

その彼が、ある日ニューヨークの地下鉄に乗った。帰宅のため時間は既に遅く、電車内は人影もまばら、路線はニューヨークの地下鉄の中でももっとも危ないと呼ばれているブロンクス方面への電車だった。格好は、ジーンズにTシャツ、そしてスニーカーとどこにでもいそうな若者の姿をしていた。

すると電車の向こうから、ガラの悪そうな連中がやってきた。もちろん彼は知らないふりをしていたが、そのガラの悪い連中は何故か彼を取り囲んだ。もちろん、目的は「かつあげ」。金をよこせ!と凄みを掛けてきたそうだ。

しかし、その彼は貧乏だった。彼のポケットにはお金が一セントもなく、さっき買った電車代ですべての持ち金を使い果たしていた。だから、彼は「金はない」と答えたそうだ。

もちろん、相手はそんな言葉は信用しない。「おまえは日本人だろう。日本人は金持ちじゃないか!」と、彼を押さえつけ、すべてのポケットを調べたそうだ。でも、金なんて出てこやしない。本当に持っていなかったのだから。

端から端まで調べた連中は、彼が本当にお金を全然持っていないことにやっと気がついたそうだ。すると、その連中のリーダーらしき男が、おまえも貧しいんだな~と言いながら自分のポケットから1ドルを取り出し、「これでピザでも食べな」。と言って立ち去ったそうだ。(当時、ニューヨークの街で、チーズピザの一切れを1ドルで販売していた)

「強盗から金を恵んでもらった奴は俺くらいだ!」と、彼は後に友達に自慢(?)したそうだが、不思議な話もあるものだよね。こういうのって、人情っていうじゃないかな…。
いろんなことがあるものだよね~。(^^)v

                              [1999年11月4日発行]

第6話 アフリカからの留学生

このエッセイのテーマに「出合いの楽しさ」がある。別の国、別の文化、別の言葉、…出合う人、出合うものすべてが、新しい体験だ。たった4年間でも、そして特に特別なことをしなくても、多くの人に会うことができる。


そんな留学を、みんなにもどんどん経験してもらいたいと心から願っている。

どんなことがあったにしても、その出合いの一つ一つが思い出になり、その積み重ねが人生を作り上げていく。ぼくは、留学から十数年経った今ごろこうやって形にして読者のみんなに「ぼくの留学史」として体験を紹介しているけど、みんなもいつか自分史を作って、学生時代の思い出をかたちにして残してほしいと思っている。

アメリカで迎えた始めての冬、意を決して旅に出た。他の章でいくつかまた紹介するけど、ここでその一つ「出合い」のエピソードを一つ紹介したい。

それは、ワシントンDCのユースホステルで起こった。
ある夜、ロビーでゆったりくつろいでいたとき、たまたまヨーロッパ方面から旅行に来ているカップルとたわいもない会話をし始めた。すると、一人二人と、どんどん他の人達が集まって、最後にはロビーいっぱいの人がその会話に参加してきた。

ソファーに座れない人は、床に座り、またある人は壁に寄りかかって、会話を楽しんだ。普通なら、20人近くの人が集まれば、別々に会話するだろうに、何故か一人の人が話しているときに、他の人は話しを聞き、全員が一つのグループのようになっていた。

そして、フッと気がついてみると、全員が英語を母国語にしない人達ばかりで、国名までは記憶に残っていないのだけど、たしか出身は8カ国以上。それぞれの訛りの強い英語で、コミニュケーションしたのだ。

そのとき、ぼくはとてもうれしかった。
世界中のどこかでは、未だにして戦争があったり、民族紛争があったりと、悲しい出来事が起こっている。でも、こうやって一人一人が集まってくると、みんなけして特別な人ではなく、文化や言葉が違っても、人は人をいたわり合い、励まし合いながら生きている。それがとても嬉しかった。

そして、「英語という一つの共通語を使うことで、心を通わせることができるのだ」と、気がついた。日本の学校では、文法やら、試験やらで英語は「学科」としてしか教えない傾向が未だにあるけど、それがとっても残念だ。言葉としての英語は、本当は世界の人たちとコミュニケーションするためのツールなのに、学科としての英語に慣れてしまうと、試験結果を重視するあまりに、大切なことを失ってしまている気がする。

その場にいた人達の英語は、ぼくが聞いても酷いものだった。でも、全然平気で自分の考えや、自分の国のことを話しているし、それを誰も変に思わないでいる。それが、「世界標準の言葉」なんだとぼくは気がついた。

その夜は、2時間ほどみんなと会話を楽しみ就寝したが、興奮してすぐには眠れなかった。日本ももっと外国から人を呼び、一人一人の心のつながりを持てるオープンな国になってほしいと思う。そのためには、英語というツールが使えることが必要条件だ、文法なんて難しく考えずに英語を使うことに重点を置いた教育方針になれればいいとつくづく思う。

アメリカへの留学生は、日本人だけではなく、世界中のあらゆる国から来ている。もともと移民の国だけあってオープンだという理由もあるけど、度量が広いとつくづく感じる。

それぞれ、出身の国や文化で、行動様式も全然異なる。
基本的に、発展途上国から国費留学で来る学生は、非常に出来もよく、一生懸命勉強をする。ある中国からの留学生は、「国ではマクドナルドのハンバーグを一つ食べるだけのお金があれば、一ヶ月も生活ができる。だから、私は必要以外のお金はアメリカでは使わない。」と言って、一日中勉強だけをしていたし、その留学生は「国に帰ったらここで学んだことを、国のために使う。」と自信をもって話していた。

もちろんグウタラ留学生も多数いた。当時その連中は中東の学生が多かったのを覚えている。彼らは、発展途上国からの留学生だと言っても、母国は石油が出るため、とても豊かだ。そのため、国費留学とは言っても、選抜がそれほど厳しくないせいか、あまり出来のよい生徒はいなかったと記憶している。それに、イスラムの規律の厳しい国から、自由の国アメリカにくると、すべての「たが」が外れて、十分な軍資金を元に「飲む、打つ、買う」と高級スポーツカーを乗り回している連中が多数いた、まるで日本から来る「どら息子」のようだった。マ~、次第に学校から姿を消していったから、ドロップアウトしていったのだと思うけど、留学生にもいろいろなタイプがある。

ぼくが合った留学生で、非常に印象深かったのは、アフリカから来た留学生だった。彼らは、もちろん国費留学生で、非常に勉強熱心。他の学生がくつろいでテレビを見ている寮のロビーでさえも勉強をしていた。

ある日、寮のロビーでくつろいぎながらテレビを見ていたとき、そのアフリカからの留学生がやってきた。そして、いつものようにテーブルで勉強を始めた。たまたま、アフリカのジャングルの様子をテレビでやっていたこともあって、普段は集中して勉強をしている彼も、時折テレビをちらちらと見ていた。その時、ロビーには彼とぼくの二人しかいなかったため、彼は珍しくぼくに話しかけてきた。

「おまえは、日本から来たのか?」
ぼくは、もちろん「そうだ。」と答えた。

彼は、勉強とテレビと会話の3つを同時進行させ、ぼくに質問をしたかと思うと、こちらの返事を聞きながら教科書を読んだり、テレビを見たり、レポートを書いたりしていた。ぼくは、「こいつなんだ?」と思いつつ、「こんなもんか…」と諦め、またテレビを見ていた。すると、しばらくしてまた彼はぼくに話しかけてきた。

「日本人は、魚を生で食べる習慣があると聞いたが、そうか?」と尋ねてきた。
ぼくは、「新鮮な魚しか生で食べないが、そういう料理を、すし、とかさしみと言うんだ。」と返事をした。

すると、ちょっとうなずいたかと思ったら、また必死になって鉛筆を握り締めながらルーズリーフの紙に何か書き始め、勉強に集中しはじめた。

「本当、変な奴!」と思っていたが、こっちも冗談半分で質問してやった。

「おまえの国ではどうだ?」

もちろん、アフリカで生ものを口にする習慣なんてないとは思っていたが、とにかくそうでもしないと、彼の勉強の「息抜き」のために利用されている気がして、意味もなく質問をしてみただけだった。

当然、彼は首を横に振り「魚は生では食べない。」と言い、そして、なんとこん
な質問をしてきた。

「ところで、鶏や、ワニも生でたべるのか?」…..

ぼくは唖然としてしまった。
エッ?!鶏やワニ?生で食べるって?そんなことあるわけないだろう!と思いつつ単に”No, we don’t eat them by row”とだけ返事をしてやった。しかし、それから会話は途切れ、無表情な顔で彼はまた平然と勉強に熱中してしていた。

それから後、「おまえは鶏や、ワニを生で食べるのか?」と聞いてやろうかと思ったが、彼の様子があまりにもまじめなのと、もし”Yes”とでも答えられたら気持ちが悪いので、知らん顔してテレビを見つづけた。すると、たまたま人間の骸骨がジャングルの中から出てきた映像がテレビに映っており、「もしや、おまえ人間は…?」と頭をよぎったものの、さすがにその質問は止めた。

いずれにしても、世の中にはいろいろな人や文化があるから、交流を深めることはいいことだ。ちなみに、君、一度「ワニの生き作り」を食べてみたい….!?!(^^)v

                             [1999年11月11日発行]

<第7話 ご禁制のバイト>

日本の大学生は、本業が「学生」なのか、「バイト」なのかわからないけど、アメリカのフルタイムの大学生は、「基本は学業」としっかりしている。ご存知のように「入りやすく、出にくい」システムのため、勉強することが必須になっていることが最大の理由だ。それに、たとえ勉強ができたとしても、出席率が厳しくチェックされるため、試験のときだけ学校に行くなんてことができない。先生やクラスによりけりかもしれないけど、3回休むと成績が一ランク下がる。5回休むと有無も言わさず「落第」となる。さらに、遅刻も減点の対象になるから、気を抜いていると大変だ。

中にはアルバイトをしている学生ももちろんいるが、きちんと学校には行っている。ほとんどの学生は、夏休みにバイトをしてそのお金を使って学費を捻出したりしているから、親のすねをかじるばかりの日本人学生より、よっぽど自立している。

さて、留学生の場合、アメリカは基本的にアルバイトを許可していない。許しているのは、大学の構内の仕事だけで、時給もそんなに良いわけじゃないし、それに働いていい時間が限られているから、それで生活費をつくることはほとんど不可能。小遣い程度しか稼げない。

でも、仕事なんていくらでも、なんとでもなるもの、親にばかり頼んでいられない人は、町に出て仕事を探してみよう。それこそ、コンピュータの技術を元にバイトを探すのもいいだろうし、日本人の家庭を探してその子供の家庭教師をするのもいい。もちろん、お決まりの皿洗いに、ウエーター、職種はいくらでもある。トライすることはいいことだ。(注意:違法であることは事実だから、自己責任ですよ。(^^;))

私の場合はどうだったかというと、夏休みの3ヶ月の間、2年目はロスの御土産やさんの裏方をし、3年目はニューヨークで旅行代理店の御手伝いをした。

当時御世話になった方には本当に頭が下がる。
だって、友達の友達の伝(つて)で、全然つながりもないのに、突然「居候」させてもらったり、相手の返事ももらっていないのに「仕事を探しているので、○○日には御邪魔します…」なんて手紙を送って訪問したりしたのだから、今思えば非常識ったらありゃしない。学生だったから許されたけど、御世話になった方々の寛大なる心使いには本当に、感謝、感謝だ。

さて、それでは普段はどうだったかというと、チャイニーズレストランのウエーターがメインジョブ。転校の章で詳しく書くけど、元々は皿洗いでもさせ貰えればありがたいと思って訪れたレストランのマネージャーが「ウエーターはどうだ?」と言ってくれたおかげでチップの恩恵に預かることになった。世の中、ドアは叩けば開けてもらえるものだ。

でも、収入のほとんどをチップで賄っていくウエーターというバイトは、お客さんに好かれなければ話にならない。英語だってそんなに自信がないのに、アメリカ人の客と会話して、注文をとるなんて、とっても不安だった。第一、メニューの数が半端じゃないから、しばらくの間は夢の中でそのレストランの風景しか出てこなかった。なんせ、百種類くらいのメニューの名前を覚える必要があったし、飲み物もカクテルの名前や、ワインの名前まで知らないといけなかったから、そのプレッシャーったらありゃしない。でも、生活が掛かっているから、真剣だった。

私はお酒を飲まないから、全然カクテルのことを知らなかった。
一度なんてお客さんがレストランについたとたん、こちらが”Hello!”と話す前に、突然、「シンガポールなんとか」と言ってきたので、なんのことやら分からずに、多分シンガポールから今戻ったところなんだ。と勘違いして、”Did you come from Singapore?” と言ったら「きょとん?」とされたことがある。


その女性の顔は今でも忘れられないが、”No,No, Cocktail.”と言われて、意味もわからず、そのまま引き下がりバーテンに”Singapore something. Do you know the drink?”って聞いたのを覚えている。そのとき始めて「シンガポールスリング」なる飲み物が存在することを知ったくらいだから苦労した。

それからは、生活の知恵で、顧客の言っている単語が分からなかったら、そのままカタカタでメモを取って、キッチンに戻って「これ、なんだ?」と聞くことにした。私の生活英語は、学校で学んだのもあるけど、かなりの分アルバイト先で得たものだったような気がする。でも、そういうちょっと「恥ずかしい」思いをしたお客さんって、意外に好意的に思ってくれるせいか、チップも弾んでくれたから嬉しかったね。

 

さて、アルバイトをするなら、知的アルバイト、もしくはレストランをお勧めする。もちろん、学校の外部でアルバイトをすることは完全に違法だから、すべて自己責任に基づいて行動してほしいけど、よっぽど「ヤバイ」アルバイトでもしない限り、監獄入りや、強制送還なんてことにはならないはずから、人生経験を積み重ねる意味でもアルバイトをすることを勧めたい。私の経験はもう既に「時効」だと勝手に思っているから紹介するけど、あくまで参考に!

さて、「知的アルバイト」とは、将来自分のしたい仕事と関連するような仕事だ。たとえば、理系だったらコンピュータ関連の仕事、ジャーナリズムの関連だったら新聞社や放送局の関連なんかがいいね。目標と目的が明確になっているなら、折角だから「当たって砕けろ!」の精神で、その会社に遊びに行くことから始めよう。見学をしたい!でもいいし、とっても興味があるので、話しがしたい!でもいいから、とにかくアタックしてみよう。始めから、「仕事がしたい」では、相手も身構えてしまうから、まずは君の熱意を
示して、仲良くなってからアルバイトの話をしても遅くはない。もしも、「お手伝い」からでも始めることができれば、道が開けてくる可能性も高いはず。

それから、僕のように、とにかく生活するため!っていう、短期的かつ切実な理由でアルバイトを探す場合には、絶対にレストランがお勧めだ。その最大の理由は、食事だ。食べ物屋だから、閉店後には食事にありつける。これは、金額では現せない価値だ。飯が食えるという安心感は何物にも変えられない。それに、貧乏学生だってレストランのオーナーに話して交渉すれば、働かない日でも、閉店のちょっと前に片付けを手伝うだけで、みんなの輪の中に入って食事にありつける。

1980年代のウエーターとしての基本給は一日$5(当時は一ドル260円ほど)だったけど、チップは一日平均$30~$40。週に5日ほど働いていたから、それなりに生活ができた。もちろん、レストランでもいろいろあるから、もっとチップ収入がある店もあるだろうし、ない店もあるだろう。それは運次第だから、そんなに高望みしすぎないように。あくまでも、勉強が主目的の留学なのだから、勉強がおろそかにならないように気を付けよう。(^^)v

                             [1999年11月18日発行]

第8話 「アメリカが世界一だから」

アメリカ人は意外に田舎ものだ。他の章でも説明するけど、唯我独尊と言おうか、中華思想と言おうか、大国意識っていうのがある。たしかに、アメリカは経済力にしても政治力にしても、ダントツだ。でも、謙虚さがほしいよね。

人間だって、国だって同じ。力のあるものは、その力におぼれずに、横暴にならないようにしなければいけない。

生活のためのアルバイトで、中華レストランでウエイターをしていたとき、故意にしてくれる老夫婦がいた。彼らは、元先生だったとのことで、当時は退職して裕福とは行かないまでも悠悠自適な生活をしている様子だった。彼らは、週に一度必ず私の働いていたレストランを訪れ、私のことを指名してくれた。チップはそんなに多くなかったけど、やはり私のサービスを気に入ってくれたのはそれなりに嬉しかった。

毎回事前に電話を掛けてきて、いつものテーブルを予約。いつもと同じ時間にご夫婦で来店してくれた。私は学校の話しや、日本の話しをして彼らの食事の話題作りをし、ときに他のテーブルのことを忘れるくらい会話を楽しんでいた。私の生活がこのバイトに掛かっていることを知った彼らは、いろいろなことを気遣ってくれたので、ありがたかった。

ある日、ご主人が私に向かって「何でアメリカに勉強に来たんだい?」と質問をしてきたことがある。私は、『外国の文化に触れたかったし、コンピュータもアメリカの方が進歩していると思ったし、そして最大の理由は英語を勉強するため、…』とか説明するつもりで、口を開けようとした瞬間、奥さんの方がご主人に向かってこう言っていた。

「あなた、それはもちろん、アメリカが世界一だからよ。」

ぼくは、ちょっと驚いてしまった。
たしかにこの地球上でアメリカが一番の国であることは認めざるをえない事実かもしれないけど、アメリカの片田舎の街の御年寄りからこんな言葉が出てくるなんて信じられない思いだった。

奥さんに、そう言われてしまっては返す言葉がなく、その場はニコニコして過ごしたけど、ちょっと気分が悪かった。このあたり、アメリカ人の傲慢さが出ているな~と感じた。基本的にアメリカ人はこの感性を持っていると私は思っている。そういうその国の価値観、考え方を感じることも、留学のメリットだ。

******

海外に出ると、日本にいるときには意識しなかった、長い歴史を背景とした「文化」が自分自身に根付いていることに気がつく。何気なく交わす挨拶でも、相手に敬意を示しちょっと会釈するなんていうのは、日本の文化だろう。始めのうちはアメリカ的に元気よく「ハイ!」と目を見つめて挨拶ができなくて苦労したりするものだ。

私はたいしたこともしていなかったのに、ホームステイさせてもらった家のおじさんや、おばさんからも、「日本人は礼儀正しい」とよく誉められたものだ。

道端に平気でタバコの吸殻を捨てたり、平気で自然を壊したりする国民性だったりするのに、なぜかしら自然と調和したイメージを日本人に対してアメリカの人は持っているようだし、また、日本人は礼儀正しいと思われている。

私も含めて、現代の普通の日本人は、それほど礼儀正しいとも思えないけど、きっと、先人の日本人が築いたイメージがそういうありがたい「遺産」を残してくれたのだと思ったりする。そして、そう言われてみると、なるほど自分でも気がつかないところで「文化」が染み付いていると感じることがある。自分自身を知ることが出きるのも、留学のメリットかもしれない。ちなみに、海外では大家さんは日本人に家を貸したがるそうだ。理由は、比較的綺麗に家を使ってくれることと、家具を丁寧に扱ってくれるからだそうだ。参考まで…。

文化は、ちょっとやそっとの年月でできるものではないから、アメリカのように数百年前には存在しなかった国には、日本人が持っているような、生活に染み込んだ「文化」なんてないのだろう。だから、彼らからすると、日本のように、千年単位での歴史を持った国や文化に対して、一種の憧れがあるようだ。

アメリカ人と会話すると、ときどき「出身はドイツだ。」とか、「スコットランドだ。」とか説明する人に出合う。もちろん、彼らの祖父らが、アメリカに移民してくる前のことを言っているのだけど、自分に流れている血がどこの「出身」かということが、それなりに意味を持っているところをみると、アメリカの歴史の浅さにちょっとした寂しさを持っているようだ。だから、日本人たる私たちは、自分の受け継いている文化に感謝し、自信をもたなければならないと感じる。

私自身、その「自信」を持っていたから、老夫婦の奥さんが「アメリカが一番だから」と平気で言いきる様子が、腹立たしくはあったけど、ちょっと哀れにも思えてしまった。

アメリカは未だに人種差別が残っている国だ。その国で、英語もまともに出来ずにいる日本人留学生は、やはりときに馬鹿にされたり、差別を感じることがあったりする。でも、自分の親も、その親も、またまたその親も、すべてこの島国ニッポンで育ってきて、素晴らしい文化を受け継いで来たのだから、私たち世代も自信を持っていいんだと思う。受け継いできた文化という財産を大切に感じることができれば、留学で手に入れてほしい
大切な価値観の一つを手に入れたと思う。

国際社会なんて、一皮むけば「弱肉強食」の非常な世界だ。ビジネスの世界でも実は同じ。外国の人とやり取りすると、偏見や傲慢さを感じる場面も結構ある。でも、どんなときにも最後の砦になるのは、心の中にある「文化」だ。誇りを持とうぜ!ニッポン人。
(^^)v

                             [1999年11月25日 発行]

第9話 SMの世界….?!

今回の話は、けして鞭と革のタイトスーツにピンヒール、…なんての話題ではないので、初めにお断りしたい(f^^;)。ちょっと残念に思われる人もあるかもしれないけど、マ~我慢我慢。

これは、アメリカ人のS君と日本人のM君の二人の頭文字からの命名で、特に深い意味はない。それに、けして二人がそんな関係にあったわけでもないので絶対に誤解のないように。(f^^;)ヘヘ

アメリカ人のS君と、日本人のM君は寮のルームメイト。仲の良い二人ではあったが、傍から見ているとほとんど「主従関係」状態に見えていた。S君はちょっと「か弱い」雰囲気だったし、M君は剛健な雰囲気だったからだ。

実際、「喉が乾いたよな~」とM君が一言言うと、S君はM君の意図を察して「何でそんなことを言うんだ?」とイヤそ~な顔をするのだけど、すかさずM君が「どれだけ、ぼくが君のことを友人として普段大切にしているのか、君はよく知っているはずだ。そんなぼくが喉が乾いたと言っているのに、ルームメートの君からクレームを受けるなんて、ぼくはとても悲しいよ…。」から始まり、挙句の果てには「このボケ!速よう、ジュース買って来い!」と時間をかけてじわじわと「いじめ」るんだ。そして、結果的に気の弱いS君は「わかったよ、買ってくるよ。いつものでいいんだろ。…」と言ってロビーの自動販売機にジュースを買いに行くような関係だった。(^^;;;

一度S君に、「君はなんでそんなに彼(M君)の言うことを聞くんだ?」と隠れて質問したことがあるのだけど、S君は「Mは言い奴だから…。」と、まるで『右の頬を殴られたら、左の頬を差し出す』的な世界を感じてしまった。マ~、S君もいじめられることに一種の快感を覚えていたのかもしれない?!さて、そのS君。サドマゾの世界ではなく、実は同性愛主義なのだ。(これ本当!)私も、寮で、何人かのちょっと「不気味」なカッコをしている人とすれ違ったりしたのだけど、彼自身は気弱そうな雰囲気だけで、外見的には普通の男だった。


ちょっと話しは飛ぶけど、その「不気味」な例の一つを紹介しよう。
身長はぼくと同じく大体175cm位。でも重量(体重というニュアンスでは表現できないので…)は、ぼくの2倍くらいありそうなかなり「太め」の黒人の学生がいた。彼は、歩くたびに体じゅうの肉を「ゆさゆさ」させていた。それは単に太っているという理由だけではなくて、彼の「モンローウォーク」が原因だった。

目を閉じて想像してほしい。
君の目の前に、テキストを抱えた肌の黒い学生が、ゆさゆさと体を揺らして授業に向かって歩いている。そして、彼はちょっと顎を斜め上に上げて「気取った顔立ち」でツンとし、人のことを「斜め下」に見るような素振りをしている。しかし、思春期の青年がみな同じように、顔はニキビだらけ、たとえると「豆大福」のようなブツブツの顔だ。そして、彼のお尻は二つ「スイカ」をつけているかのように「豊か」で、1歩1歩足を運ぶ度に、まるでスイカに近寄ってくる小さな虫でも追い払うかのように、しゃくり上げるような「上下運動」を繰り返す。それも、短パンに「黒い網タイツ」を履いて….。(f^^;ゾゾゾ…

でも、彼らは結構気さくなんだよね。すれ違うときにこちらが「ハイ!」と言うと、これがお洒落に「ハ~イ!」と言うんだ。悪い奴ではなさそうだと直感するけど、ちょっとお近づきに成りたくない感じだった。

あと聞いた話だけど、これもなかなか面白いので紹介しちゃおう。
ある夜、女子寮に「男女の戯れる声」が聞こえてきたそうだ。もちろん、学校の規則で夜9時以降に男性が女子寮に入ることは禁止させられているから、見つかったら大変で、場合によっては退学となってしまう。

警備のおじさんが、窓越しからその「雄叫び」を耳にした。すぐさま、ドームマザーと言われる住み込みの「寮監」おばちゃんに通告し、二人でそ~っとその部屋のドアに耳をそばだてて中の様子を確かめたところ、やはり中には「男」の雰囲気を感じさせたそうだ。

 

すぐさま、ドームマザーはドアを叩き ”Open the door!”と叫んだ。出入り口はそのドア一つだから、逃げようがない。窓も飛び出すには高すぎる。すると、中では明らかに逃げ惑うようなドタバタと音がする。もちろん、返事が返ってくるわけもなく、ドアを開ける様子もない。

ドームマザーはまた、”Open the door!”と叫けんだと同時に、警備のおじさんに合鍵を使ってドアを開けさせた。すると、….。

なんと、その部屋の中では、数人の女性がマッ裸。必死に服を着込んでいたそうだ。…..。その場に居合わせなかったのがすこぶる残念だが、部屋の中で何が起こっていたのかは、大体想像はつくでしょう。(^^?)

よくクラスメートと歩いていると「彼女は、男性も女性も愛せるんだ。」と、教えてもらったりしたものだ。ちょっと、理解に苦しむけど….。

さてさて、話しを戻しましょう。

S君は同性愛者だけど、M君はノーマル。傍から見ていると、夜襲われることはないのか心配だけど、S君の普段の行動からすると、襲われることはあっても、襲うことはなさそうだから、いかがわしい噂も立たなかった。それに、「その道」の人達にはそれなりの「仁義」があるらしく、素人さんには手を出さないんだそうだ。(^^;)そう考えると、ノーマルな連中の方が見境無く暴挙に走ったりして、相手を不幸に陥れる場合が多いことを考えると、世の中不思議なものだ。

M君は名前の割には、サドっ気(Sっ気)があることは説明した通り、S君をある日いじめたそうだ。話しの発端は、彼らの部屋から何か物が無くなったことから始まる。無くなった物自身は大した物ではなかったらしいけど、問題はS君が部屋にいるときにそれが無くなったということ。つまり、S君は犯人を知っていることになる。

M君は、そのS君に、誰が自分のいないときに部屋に遊びに来たのか教えろ!と詰め寄ったそうだ。でも、S君はそれを答えなかった。理由は、部屋にまで遊びに来るということは、当然S君の友人だから、M君に誰が来たかを教えると友情を踏みにじると考えていたらしい。

でも、実はM君。誰が部屋に遊びに来ていたのかは、薄々知っていたそうだ。
S君の交友関係はルームメートの彼が一番よく知っていたから、当たり前といえば当たり前なのだけど、そこはM君、この機会を使ってストレス解消とあまり「サドっ気」もろだしの行動に出たそうだ。

もちろん、黒いマスクや、ハイヒールに皮の鞭、…。なんて行動に出たわけではなく、知的ないじめに入っていった。(^^;)

実はS君、敬虔なるクリスチャンなのだ。
毎週欠かさず教会に行くし、バイブルをとても大切にしている。テレビなんかを見ていると、アメリカの法廷でバイブルに手を乗せて「ウソはつきません」と宣誓させられる光景を目にすることがあるけど、クリスチャンの国のアメリカでは聖書に手を当ててウソをつくということは、「神様に向かってウソをつくこと」に相当するため、一般の善人の人は絶対にウソがつけないのだそうだ。(江戸時代の「踏絵」はそんなところから発想したものなのだろうね。考えてみれば酷いことをしたものだよね。)

いずれにせよ、M君はそれをやったのだそうだ。
S君の大切にしている聖書に手を乗せさせ、すべてを白状するように強要したのだそうだ。さすがにS君は困ったらしく、知らない、知らないというときには、心なしか聖書から手が離れていたそうだ。ウソはつけないものだよね。かわいそうに…。

最後に、S君、やはり女性役だったらしいことを付け加えておきたい。(^^;)

                              [1999年12月2日発行]

第10話 娼婦の学割?!

世の中いろいろなことが起こるもんだ。あれは夏休みにニューヨークでバイトをしているときのこと、有名なタイムズスクエアの近くを夜7時頃にウインドーショッピングをしながら観光していたときに起きたこと。

あちらこちらでビルの工事をしていて、それでなくても蒸し暑くて気分が悪かったのだけど、マ~これもニューヨークの光景だな~なんて思いながら、テクテクと歩いていた。ニューヨークの夏は日本の夏と同じように、蒸し暑いし、ビルやコンクリートが熱を持つので夜でも結構寝苦しい。だから、白のTシャツに、白の綿パンをはいてぶらぶらしていたんだけど、突然右斜め後ろあたりに香水の香りと人影を感じたんだよね。

フッと振り返ると、結構美人のおねーさんが立っていて、”Do you wanna date?” って言ってきた。コ、コッりゃ娼婦だ~と直感。もちろん娼婦なんて日本でも見たこともなかったし、話したこともなかったから、僕は慌てたね。それで、どうしたらいいかと思ったときに、英語がわからない振りをすることに決めたんだ。

“I don’t know English.”なんて言って良くわからない振りをしたんだけど、おねーちゃんは仕事柄(?)とっても積極的。僕の腕をしっかり抱きかかえて一緒に歩き始めた。そして、”Are you Chinese?”っていうもんだから、”No,Japanese.”って言ってしまった。

言ってから「まずい」って思ったものの後の祭り。そしたら、なんと彼女日本語で話しかけてきた。「きれいな子いるよ。遊んでかない?」って言うわけだ。それも、耳元で。

僕も男だからね、くらくら~と気持ちが揺れたけど、幸か不幸か貧乏人の学生アルバイトの身分の僕は持ち金ほとんどなく、本能の赴くままの行動を取ることができる状況じゃなかったんだよね。

それで、仕方なく(?)”No, Thank you. “と答えたんだけど、それでも腕をしっかりつかんで、耳元でささやき続けた。それで、「あなたヤクザ?」とか言ったから、日本語で「学生」って言った後に”I have no money.”って言ったんだよね。

すると、うれしそうな顔してなんて言ったと思う?驚いたことに、なんと彼女は「学割あるよ。」って言ってきたんだ!(@_@)!

「学割」!?!ダ、誰だそんな日本語教えた奴は?と感じたが、持っていないものは持っていないわけで、首を強く横に振ったら、こりゃ駄目だと思ったらしく、僕の首筋をそっと触ってウインクをして去っていっちゃったんだ。夏の夜の思いでだけど、結構どきどきものだったよね。(f^^;)

それから、今度は別の夏休みにロスでやっぱりアルバイトをしていたとき、あれは有名なサンセットストリート。道の両側の電柱という電柱に女性が立っているところで、僕は友人の車に乗っていたんだよね。観光気分でその際どい服を着ているおねーさま方を車の中からまじまじと見ていた。こちらの視線を感じると、ウインクをしてくるおねーちゃんもいれば、黄色人種には興味はないわよ!って冷たく見下すようなしぐさをするおねーちゃんもいた。

僕は、車の中で冗談を言いながらおねーちゃんの品評をしたりなんかしていた。
「ネ~、ネ~、あのおねーちゃん、おばちゃんだよね~。」と、たまたま一緒にいたのが日本人だったから、堪能な(?)英語だと普段出ないような流暢な冗談を久々に楽しんだりしたんだよね。

それで、たまたま信号機が赤になったときに、3人ぐみの女性がそばを歩いていたんだよね。でも、遠目にも、なんとなく体つきががっちりしているし、近くで見ると顎のあたりがごっついし、どう見ても女装している男、…つまり「おホモだち」だったんだ。

僕は、「ヘ~こんなところにもホモがいるんだ。」って、何気なく声を発したんだよね。不注意にも窓を開けたままで。すると、そのおねー様方が近づいてきて、車体を蹴飛ばしたんだ。こりゃ~驚いたね。殴られるかと思った。でも、信号が変わったからすぐに発進できて、事もなくすんだけど、あのときは本当におったまげた。(^^;)

車は日本車で、お菓子の缶程度の薄い車体だったけど、ちょっとへこんだ程度ですんだし、僕の車じゃなかったし、良かったのだけど(どこが?!)。冷や汗たらたらものだった。

日本人同士の会話だから、理解できないだろうと思ったのがまずかったのだけど、たまたま発した「ホモ」って言葉が悪かったんだろうね。だって、これも英語だからね。彼ら(彼女ら?)は、すぐにその言葉で自分たちのことを話しているとわかったらしく、車を蹴飛ばしたわけだ。

日本人同士で会話していると、アメリカ人には内容が判らないと安心して、悪口を言っていると、時々言葉の端々に出てくる「外来語」で、痛い目に会うっていう好例だよね。

皆さん、気をつけて!マ~そんなところに行かなければそんな問題も起こらないと思うけどね。そんじゃ!(^^;)

                              [1999年12月9日発行]

第11話 インチき!

日本人は、理数系の科目が得意だと言われているけど、留学先の大学で数学のクラスを取るとその意味がわかる。なんせ、「数学の初歩」のクラスなんかだと、なんと大学の教科書に、二桁の掛け算の問題が載っていたりするから、本当に目を丸くする。

しかし、これは言葉が不自由な留学生にとって天の恵み。数学を勉強する目的としてではなく、英語に慣れるためのクラスとして使うといい。もちろん、単位も簡単に取れるから、後々のGPAのためにも、しっかりとAを取ろう。このときに、気を抜いてしまうと、後々大変なことになるからね。

「留学くずれ」と呼ばれているほとんどが、この時期に気を抜いてしまっている連中だ。それは、この時期に英語の勉強をせずに楽だからと遊び呆けてしまい、後々のクラスに着いて行けなくなうからだ。

私も、仕方なしに学校を辞めてしまった何人かを知っている。この時期にしか「時間的余裕」がないのに、始めから留学生活(遊学生活?)をエンジョイしすぎてしまうと、あの有名な「アリとキリギリス」の物語状態になってしまう。こんなことを書いているぼくも、実はこの「留学くずれ」寸前の状態にまで陥ってしまったことがあるからこそ、このことを強くアドバイスしたい、絶対に忘れないでほしい。

初期の頃に大切なことを吸収せずに、その先の学期で受ける「本番」の授業にアタックすると、その授業の速さに後々苦しむことになるだろう。数十ページにも及ぶテキストを「明日までに読んでくるように」と言われると、本当に目の回る思いがする。日本語でさえきっと読むのが難しいであろう内容を、英語でやるわけだから、そりゃ、どうしようもない。努力しようと思っても、集中力が持続しない。すると、翌日のクラスは何をやっているのかよく分からない、これが繰り返されて段々泥沼化していく。そして最後には「身を滅ぼしてしまう」というわけだ。

 

それでは、楽なクラスの時に何を吸収するかだ。
1. 先生とのコミュニケーションの取り方
2. 質問の仕方
3. 授業の雰囲気
4. 生きた英語の使い方
だ。たぶん、この程度なら「当たり前じゃん!」と感じていると思うけど、やってみると意外に難しい。そこで、ここでは効率の良い習得術を教えたいと思う。

それは、「既に理解している内容を質問に行く」ことだ。
クラスが終わってから先生のところに行き、「先生に質問があるので、先生のオフィースに訪問したい。いつがいいか教えてくれ。」と聞き、アポイントをとる。そして、120%理解している内容を事前に選び、先生に「これは、こういう考え方でいいのか?」と質問するんだ。先生の方は、君にだけの時間を取ってくれるので、じっくり「先生とのコミュニケーションの取り方」を学べる。すでに、質問の解答は既に知っているのだから、こちらも余裕を持って会話が出きるので、英語力アップにはとても役に立つ。


また、論理建て会話する練習にもなるのでお勧めだ。

当時のことを振り返ると、先生と「1対1」コミュニケーションした経験が、外国人との交渉に会社に入ってからどれだけ役に立ったかわからない。先生の目、表情をじっくり観察し、自分の英語がどの程度まで相手に伝わっているのか、どう説明すれば相手に理解してもらえるかをトレーニングできるからね。

さらに、先生が説明してくれる内容をよく聞くことで、英語的表現方法(生きた英語の使い方)を学ぶことができる。これも、すでにどんなことを相手が言って来るのか想定できるからこそ持てる「余裕」からくるから、是非これを折を見て試してほしい。

始めのころには、単に”I don’t understand.”という質問だけでも十分だけど、少しずつ、自分なりに表現方法を工夫することで「質問の仕方」が学べるし、上達が速い。質問する内容を「自分ではこう理解しているが、ちょっと自信がないので教えてほしい。」と言って、先生の表現に手を加えて「自分の表現」に直し、先生に質問すると勉強になる。

しかし、ここで覚悟しなければならないことが一つある。
それは、初期の頃は「何を言っても先生に理解してもらえないだろう」ってことだ。本来120%理解している内容だから、絶対に問題ないはずなのだけど、英語力がプアーなためにそれがうまくできない。結構、これが苦痛なんだ。

しかし、めげてはいけない。
「俺の英語が理解できない先生が悪い!」と強気で行こう!
そして、何度もゆっくりと自分の言いたいことを順序だって説明してみよう。先生も君のことを理解しようと努力してくれるはずだ、だって先生の給料は、君の学費から出いるからのだからね。

そんなこんなを繰り返している内に、なんとかなっていくものだから、何度も落ち込みながらトライしてみよう。クラスでは目を皿のようにして、耳はダンボにし、授業が終わってからは、先生に英語力向上のヘルプをしてもらう。折角自分に多額の投資をしているのだから、リターンも大きくしよう!

しかし、世の中皮肉なもの。
君がそんな英語の苦しみを味わいながら頑張っているなんて誰も知らないから、数学のクラスでは常にトップの成績でいる君に、時折他のクラスメートがひがんだりする。「あいつ、言葉もろくに出来ないくせに、なんで数学だけはあんなにできるんだ!」と、結構露骨に陰口をきく連中もいたりする。そんなときには、「これ、中学校のときに既に勉強し
ているから。」って言ってやろう。彼らは何でだ?とばかり「キョトン」とした顔をするからね。

ぼくたち日本人からすると、外国=アメリカに近いイメージあるし、外国語=英語だと信じているお年寄りだってたくさんいる。最近はやりのグローバル化という言葉の裏側には、「アメリカ化」を示している傾向が感じられるくらい。そのためか、アメリカ人はよっぽど「国際派!」と思われがちだけど、実際には意外にも「いなかっぺ」だったりする。聞いてみると分かるけど、パスポートだって意外に持っていない。

日本だと、大学在学中に卒業旅行や、バイトをして貯めたお金で海外旅行をする人がほとんどなのに、アメリカの大学生はあまり海外に出ない。ひどいのになると、自分の州の外に出たことがない人だってたくさんいる。それなのに、一種の中華思想的なものがあって、アメリカは世界一の国だから、自分達も「世界一の国民」なんだと勘違いしてしまっている人もたくさんいるのも事実。

だから、大学で勉強している内容を目の前の東洋人が「中学校で既に勉強している」と言われても理解できないらしく、ハトに豆鉄砲状態で、キョトンとしてしまうのだろう。たぶん、彼らからすると「俺がこんなに苦労しているのに、中学校で勉強した?なんのこっちゃ?」ってところなんだろう。

たまたま、ぼくの取った物理の先生が韓国人だったことがあって、一度カフェテリアで話しをしたことがあったのだけど、そのとき先生が「韓国や日本はすでにこんなことは勉強済みだからね~、退屈だろう?」なんて話してくれたのを記憶している。


そんな状況だから、常に試験で100点は当たり前。そして、それを見ているクラスのアメリカ人はプライドが傷つけられてしまう。気分が悪くなるのもうなずけなくはない。

ある日、メートル法の話があり、先生がインチからメートルへの換算に関して説明してくれた。でも、今までなれ親しだ単位が変わるなんて理解できない人がたくさんいたらしく、「なんでアメリカの使っている単位のインチを世界標準にしないんだ!」とばかり、理解できないことを棚に上げて、先生に噛みついたていたりした。

実は、昔々アメリカも一度、国際標準のメートル法に則り、インチを廃止しようと試みた経験があったのだけど、やっぱりこのクラスの生徒と同様に、「単位が変わる、なんのこっちゃ?」とばかり多くの理解できない国民の猛反対の結果、世界の動きに付いていくことが出来ず、断念したことがあった。しかし、そのあたりは先生は説明せずに、いいかげ
んに「アメリカでは、そんなに使わないから、心配いらない。」とよく分からない返事をして言い逃れしていた。

そして、その日の最後に理解度テスト(クイズ)を行ったところ、もちろんぼくはいつものように100点。しかし、なんとクラスの半分くらいの人は、落第点となってしまっていた。さすがに、この事態には先生も生徒達も愕然としたらしく、ぼくへの風当たりはとても冷たいものになったのを覚えている。

そのクイズが終わった後、その先生がクラスの生徒への励ましの言葉を述べたのはこんな内容だった。「彼の国では、昔からメートルしか単位がないからね~。」?!?

ぼくは、何をこいつ言っているんだ?と顔を見てしまった。
距離なら里、着物では反、面積では坪、重さでは貫、日本は山ほどいろいろな単位を使っていたのにも関わらず、世界標準をきちんと受け入れることができた事実を知らずに、何を言っとるんだ!と怒ったりしたものだが、当時はまだ英語力もなく、情けないが、しかたなくニヤニヤしていた。今だったらきっと言い返していただろうね。

「てめ~ら、自分の出来の悪いのを棚に上げやがって、もっと勉強しろ勉強!」って言ってやりたい。本当に。

だから、それからアメリカ人は「インチきだ!」と時々言ったりしているのだけど、こんなジョークはあまり理解されなかったりする。トホホ (^^;)

                             [1999年12月16日発行]

第12話 USA NO1!

今回は車の話です!

アメリカは、大都会を除いては、自動車がなければ生活ができない。だから、自動車免許だって、日本では考えられないくらい簡単に取れてしまう。それに、試験にパスするとその場で仮の免許書を発行してくれるから、本物の免許書が送られてくるまでの間まったく不便がない。所用時間2時間程度ですべて完了してしまう。うらやましいよね。

金額も、めちゃ安。
日本では、自動車教習所での費用を含めると年齢分だけお金が掛かると言われているけど、多分アメリカではその100分の一くらいの費用で免許書が取れる。それを利用して、昔は、アメリカへ海外旅行をしたついでに、免許書を取って日本に持って帰り、日本の免許に書き換えをした人が結構沢山いたらしい。それじゃ商売にならないと、多分自動車教習所の協会かどこかが反対して、そんなに簡単に免許の書き換えが出来ないように法律が変わってしまったんだよね。


まことに残念だ!!

確か半年以上現地で滞在した証明がないと書き換えは駄目だったはず。でも、留学で長期に滞在するなら、是非アメリカで免許を取って帰ってくることをお勧めしたいね。日本の道路事情と違うから、帰ってきてから日本で慣れるまで時間がかかるけど、マ~すぐに慣れるから大丈夫。

アメリカは広大だから、外出するときにはほとんど車を利用する。だから、住宅街の道には、ほとんど人が歩いていない。それに、道が広いから、運転は簡単だし、安心だ。駐車場だって一台あたりのスペースも広いから、縦列駐車で頭を悩ますなんてほとんどない。無謀な運転をしなければ事故なんてほとんど起きない環境だ。

もちろん、モール(ショッピングセンター)の駐車場も、満車で駐車できないなんてことは、ほとんどない。唯一あるとすると、クリスマスの後にやるセールのときくらいだね、駐車で待つなんてことがあるのは。

だから、日本と環境が全然ちがう。それに、最大の違いはご存知のように右側通行。アメリカの元々の持ち主である、イギリスは左側通行なのに、なんで逆になってしまったのかは知らないけど、そのおかげで、日本に帰ってきたときにはサ~大変。特に夜間、車の通りの少ないところを走ると、大きな交差点で曲がるときに、どちらの車線に進んだらいいかマジに迷うから、注意が必要だ。(^^;)

さて、ここで、ちょっとした雑学クイズ。
最近はアメ車も日本市場向けに右ハンドルの車を作り始めているけど、実はその前から、ある目的のために『右ハンドルの車』を作っていたそうだ。それは何の目的のために作られた車でしょうか?これが質問です。

答えを聞けば「なるほど!」とうなずけるのだけど、回答はこの章の最後までお預けしましょう。それまでみなさん、どんな目的の車なのか考えて下さいね。(^^)

さて、運転免許書の発行は、州によって、やり方や金額が異なるけれど、基本的に日本と同じ筆記試験(選択)と実地試験がある。どちらも簡単だし、場所によっては日本語の試験が準備されているところさえある。まさに、至れり尽くせり状態。

実施試験だって、日本の自動車教習所で習ったように、車に乗るときには前後左右、車の下すべての安全確認をする…、なんてない。単に車が運転できること、Uターンや、バックでの駐車ができること、….。なんて、ごくありふれたメニューがこなせれば、即合格。

大体、免許を取るために、その試験用の車を自分で持って行くことが必要なのだから、ふざけたもんだよね。(一応、誰か他の人が車を運んでくれることが条件なんだろうけど、それにしても、おおらか。)

それから、面白いことに州によっては免許書に写真がないところだって、あったくらいだからね。それも、なんとニューヨーク州!今では確か写真入りに変わったはずだけど、十数年前は無かったんだよね。(f^^;)

でも、思い出してみると、私はイギリスで免許を取得していて、それも写真がついていない。それに、なんと期限が2031年の誕生日の前日まであるのだから、とてつもなく長い!それに、ECの国ならどこでも運転できるので、これも超便利な免許だ。今はEUになっているから、私の持っている免許が有効なのかどうか知らないけど、免許一つを取ってもいろいろとあるものだよね。

日本でも、最近自動車のナンバープレートの番号が選べるようになりつつあるようだけど、それにしても、単に番号だけ。でも、アメリカでは、自分で好きなナンバープレートが作れる。特注になるから、追加料金が必要になるけど、アルファベットを含めた好きなプレートが作れる。自分の名前を入れたりする例を何度か見たけれど、一番感激したプレートは、この章の題にした、”USA No.1″だった。

アメ車のスポーツカーで、プレートに”USA No.1″、なんて書かれていたら、カッコイイよね、本当に。君も、自分で車を買うことになったら、折角だからオリジナルのプレートを作ってみよう。記念になるよ、きっと。

さて、最後に「アメリカで昔から作っていた右ハンドルの車は何か」の回答です。
どうかな、分かったかな?答えは、郵便配達用の車。

広いアメリカでは、郵便配達もやはり車を使って行う。
基本的に、ポストは庭先の道に接したところに設置されているため、ジープに乗ったまま配達もできるし、回収もできる。合理的だよねアメリカって。それから、日本でも見習ってほしいのだけど、アメリカのポストには赤い旗が付いていて、それを立てておくと、「郵送したい手紙がこのポストには入っていますよ!」という印で、郵便屋さんがその手紙を持っていってくれる。これは便利だよね。わざわざ手紙を送るのにポストを探す必要ないからね。(^^)v

                             [1999年12月23日発行]

第13話 結果に慈悲なし

すったもんだの留学生活も、あと一学期で終了!

残り15単位を取得すれば、晴れて「ご卒業!」にまで迫った春。「やっと、ここまで来たな~」という感慨と、「最後で気を抜いてしまったら元も子もない」。という緊張感とで、最後の学期を迎えることになりました。

「息を抜くな!息を抜くな!」と、自分に言い聞かせながら、目標であった卒業に向けて「ねじり鉢巻」の意気込みで初日のクラスに望みました。でも、やっぱり不安が頭を過っていました。大丈夫だろうか….。正直、不安で押しつぶされそうでした。

でも、ここでめげてはいけないと、気を取りなおしてちょっとした下心をもって、先生に「オベッカ」を使うことにしたのです。(この辺が、貧乏人のしたたかさですよね。(f^^;))

実は、かつて日本の高校を卒業するときにも同じような経験があり、それを思い出していた私は、「奥の手!」とばかり最後の手段を事前に講じようと考えていたのでした。

あれは、物理II。
当時、青春の真っ只中だった私は、本気で『人生とは?』と息が苦しくなるほど考えていました。「神様っているのだろうか?」みたいなことを必死に考える毎日を過ごしていたのですから、そりゃ成績なんて良い訳が無く、どんどん周りの同級生に勉強の遅れをとり、どうしようもない成績でした。

さらに、高校三年生になる前は、理系に進もうとしていたのを、何故か三年生になってから「文系」に替えたため、これも成績にダイレクトに響いてしまいました。なんせ、受験科目に物理IIや、数学IIIなんてないのにも関わらず、授業だけはきちんとあるのですから、さらに身が入らなかったのです。そんな状況で、高校最後の期末試験。物理IIの成績はもちろん「赤点」。


昔見た青春もののテレビ番組で、「永遠の留年生」「赤点の帝王」と呼ばれる学生がかならずいたのを思い出し、「俺も高校4年生(?)になってしまう!」と、試験勉強をしていなかった「報い」にも関わらず、本当におどおどしてしまいました。

このままでは、大学受験どころではなく、高校卒業も危うい!と思った僕は、最後の手段、「自家談判」(ウ~ン、もしかしたら「拝み倒し」の方が正しい表現かな?)をすることにし、赤いボールペンで本当の「赤い点」がつけられた解答用紙を持って、教員室に入っていったのでした。

冬の日差しがちょっとまぶしい中、先生は東北弁で「どうしたの?」と話しかけてくれました。私は、少しおどおどしながらも、真剣な眼差しで、「あの~、前回の期末試験なのですが、あまり良い成績ではなかったので、エ~、卒業をするのに必要でしたら、補習なり、追試なりさせていただければと思うのですが~....。」と先生に話しかけました。

なんせ、留年なんて思っただけでも頭がクラクラする思いでしたから、なんとかしなくてはならないという、一心でした。しかし、先生は意外にも「大丈夫。心配いらないから。」と言ってくれたのです。そして、なんと通信簿には『合格点』を付けてくれたのでした。私は本当に嬉しくて、今でも先生の厚意には感謝、感謝の気持ちでいっぱいなくらいです。

今になって思うと、学校の成績など人生のほんの一部の出来事でしかないのですが、当時は卒業できるかできないかの瀬戸際だったので、忘れられない出来事として、私の心に深く残っていたのです。

それで、やっぱりこれは先生に「きちんとしたご挨拶をしなければ!」と、クラスの初日の授業のが終わった後、部屋から立ち去ろうとする先生を呼びとめて、「こんにちは、先生。このクラスを取れば、目出度く卒業できます。頑張りますので、HELPお願いします。」と話しに行ったのでした。

ところが先生、「こいつ何言ってんだ?」といった顔で、僕に向かって「このクラスは、年に一度しかないクラスだ。それも難しいクラスだ。去年このクラスを取ったある生徒は残念ながら落第してしまい卒業できず、一年間待って今年もこのクラスを受けることになっているんだよ。」…、と説明してくれたのでした。…..(*_*)。


単に「卒業か~、頑張ってね。」くらいの言葉を掛けてもらえるだろうと、甘い気持ちを持っていたので、その先生のあまりにも「冷徹な返事」に面食らってしまい、「とにかく、頑張ります。」といって、その場は立ち去ることになってしまいました。

私は、「…でも普通は言わないよな~、そんな厳しいこと。このクラスが難しいことも、年に一度しかないクラスだっていうことも知っているわ!」。などと、ブツブツ独り言を言いながら、教室を後にしたのでした。

シカシ!
日本の学校は入るのは難しいが、出るのは簡単。そして、アメリカの学校はその逆。…知っていたはずなのに、安易に先生に「オベッカ」を使いに行った私が悪かったのだと、落ち付いて考えてみると理解できたのです。結構、心にズシンときたのですが、その先生の言葉が私をもっと真剣にさせたのですから、ありがたい一言だったと、後になって思いました。

それから、このシビアさは他の授業でもありました。

それは世界史のクラスです。
世界史は、日本でもちろん勉強していましたから、全く始めてのことを習うわけではないのですが、理科系とは違い、ごまかしが効きません。クラスに付いていくには、それなりの「英語力」が必要です。以前、留学して半年ほど過ぎた頃に、何気なく「アメリカ史」のクラスを取ったことがあり、それでとんどもなく苦労をしたことがありました。結局、あえなくそのクラスをドロップ(その授業を受けないことにすること)した経験があった
のです。

ですから、留学を希望する人で、私みたいに記憶力があまりなく、英語力もない人は、この種の英語力を必要とするクラスを取るのは、かなり英語に自信がついてからの方が無難だと思っています。(アドバイス!(f^^;))

いずれにせよ、卒業するためには、その世界史をクリアしなければならないのです。テキストは厚さ10cmほど。使用する部分はそのテキストの後半、つまり約5cm。さらに、その先生は、授業中一切そのテキストを開かず、黒板にも一切何も書かない人で、あごに髭を伸ばし、いかにも『大学の教授』って感じの人でした。

クラスには毎回、”Good morning!”と、「グ~」の部分を強調する口調で入ってきて、教壇の机の上にお尻を乗せて、膝を組みながら、まるで自分がその歴史の舞台にでもいたかのように、雄弁に一時間びっちり話をしていました。

でも、その先生、なかなか話しは面白いし、日本の受験用授業とは異なり、豊富なエピソードを含んでいたので、勉強自体は楽しかったのです。ただ、如何せんノートを取るのがめちゃくちゃ大変でした。

下手にノートを取ることに集中してしまうと、先生の話しを聞き逃してしまうし、かといてノートが取れないようでは後で復習することができない。あれこれ迷って、仕方なしに、たまたまクラスの隣に座った女性にノートを貸してくれるように頼んだのです。彼女は、一応OK!と言ってくれて、始めの数日間は図書館に行ってノートをコピーさせてもらうことができました。

でも数日後に、その女性が厳しい顔をして、「あなたは、4年生でしょ!4年にもなって自分でノートが取れないなんて、どうしようもないじゃない?!」と、言ってきたのです。私は、その言葉でかなりショックを受けましたが、反面「なるほど、ごもっとも!」と、その女の子が言っている通りだと思い、それを最後に、他力本願ではなく、自分の力でこのクラスの単位を取ることにしました。

それ以後、毎回カセットテープを持ちこんで、クラスでは先生の話しを理解することに集中し、その後図書館に行ってそのテープを再度聞きなおしながらノート作成をしました。これが結構大変でした。授業では、大まかなポイントだけをノートに書き込み、そのポイントを整理するために適度なスペースをノートに残しておきます。クラス終了後、図書館でテープを聞きながら、復習を兼ねてそのノートの空白部を埋めて行くのです。

当時持っていたテープレコーダのマイクの質があまりよくなかったせいもあって、聞きずらいところもあり、1時間のクラスを大体2~3時間かけて復習しました。しかし、これだけ頑張っても、やはりバカはバカなのでしょう。期末試験で100問の内79問の正解しか出来なかったのです。つまり、79点。あと1問できれば、ぎりぎりセーフのB。しかし、たった一問でも結果としてはCとなってしまうのです。

そこで、やっぱりそのときも先生に泣きに行きました。
「私は、毎日2~3時間も使って勉強をしてきた。しかし、英語のハンディーがあるため、どうしても良い成績をとることができなかったのです。その辺を考慮してもらってBにしてもらえませんでしょうか?….」と、10分近くどれだけ勉強を一生懸命やったかを力説しました。

しかし、先生の答えは「NO」。
一生懸命頑張ったことは認めるけど、CはCだから….。

ナ、なんと無慈悲な!私は叫びたかった。もちろん、試験の結果通りの成績だけど、あと一問だよ、あとたったの一問。これで、GPAがどれだけ影響を受けたか。世の中は、本当に厳しいものだとつくづく感じたましたね。でも、それが現実ってもんでしょうからね。気を引き締めよう!ネ(^^)v

                             [1999年12月30日発行]

第14話 旅行-旅立ちの序曲

一年目の冬休みは、私の人生にとって一つのメモリアルだと思っている。

それまでの20年間、どんなに大きな口を叩いても親の保護下にあり、自分一人で決断することなど一度もなかった。しかし、親から離れ一人で異国で生活するようになると、自分で判断し、行動し、責任を取ることが必要になってくる。すると、本当の自分の性格がよくわかってくるものだ。


私の場合は、かなり臆病者だったと感じる。どうしても、保身に走りがちで、未知の物に対して、喜んでチャレンジするなんて出来ない。でも、そんな自分がとてもイヤだから、時々その反発で何かに挑戦したりしているようだ。

だから、振り返って見ると「よく、やったよな~」って感じることが時々あったりする。人間なんて不思議なものだよね。20歳で迎えた留学初めての冬、学校が休みに入るときに、身を守ることから飛びだし、無謀にも貧乏一人旅にチャレンジすることになった。

冬休みは大体一ヶ月ある。


12月はまるまるお休み。その間、留学生は日本に帰る人を除いては、寮に残るか、友達の家に居候させてもらうかするのが一般的。私の場合は、残念ながら冬休みになる前までに、居候させてくれそうな友達も出来ず、そのまま学校の寮に残って時間をつぶすしかない状況だった。

でも、寮に居たって話し相手がいるわけでもなし、勉強するわけでなし、食事だって歩いて20分ほど先にハンバーガー屋があることを除いては、レストランなんて何もない。不便な生活になることが目に見えていた。寮にいても無料じゃないし、食事だってすべて外食に頼っていたら、それこそ何もしなくても、お金はどんどん飛んでいってしまう。そう考えたら、寮の滞在費をバス代にあてて、食費をケチってアメリカを体験する一人旅にでも出ようかと思っても不思議じゃない。

でも、ほとんど予算がない。
なんせ私の両親は、自分たちの生活を切り詰めるだけ切り詰めて、私を留学に出してくれたのだから、無理は言えない。結局、寮にいてかかる生活費ににちょっとプラスする程度の予算しか組めない。ヒッチハイクをしていくことも考えたが、さすがにそこまでの勇気はなく、グレーハウンドのバス定期を購入することにした。

最近は、「進め電波少年」の影響で、無謀にもヒッチハイクだけで、ほとんどお金を使わずに、人のお世話になるばかりの旅行をする人が増えたらしいと雑誌で読んだことがあるけど、そんな旅行はあまり進めたくない。だって、どれだけ多くの人がヒッチハイク中に誘拐されて帰らぬ人になっていることか、….。この旅行中に私も一度だけ、ヒッチハイクをしたけど、やっぱり一人では危険だと思う。

ましてや、人にお世話になるってことは、人に恩を返す気持ちがなければ絶対にしてはいけないんじゃないかと思っている。マ~、私の主観だけど。さて、話を元に戻しましょう。


そのバスの定期は、アメリカ全土一ヶ月好きなだけ旅行できるものだ。それを使って、宿泊施設を利用しないように、なるべく夜は夜行バスを活用してバスの中で寝る計画を立てた。でも、それをしても食費は一日$10だけ。なんとも、財布の中は心細い限りだった。

さて行き先だが、1ヶ月でアメリカ大陸を横断することも考えたが、やっぱり、一度はニューヨークへ行ってみたい!とばかり、ロマンチックなクリスマス時期のニューヨークへと旅立つことに決めた。

しかし、真冬のニューヨークに長期滞在することも予算的にまったく出来ない。そこで、私のいたジョージア州から、テネシー州経由で一路ニューヨークへ、そして、数日ニューヨークへ滞在した後に、南下してアメリカ最南端のキーウエストへ行く、アメリカ大陸縦断とすることにした。

ニューヨークの滞在先は、もちろん貧乏旅行の友「ユースホステル」。
さすがに冬のニューヨークは寒く、野宿をして凍死するのもいやだったから、南下する際のお金を少し先食いすることにした。あと、今までけちけちしてためた小遣いを予備として持って行くことにした。といっても、$120くらいしか予備はなかったけどね。(f^^;)

でも、心はバスの定期を買いに行く直前まで揺れていた。
お金だってあまり持っていないし、英語もろくすっぽ話せない、危険だってたくさんあるに違いない。そう考えると、やはり「怖かった」。本当に怖かった。このまま寮に残っても絶対につまらない冬休みになることは確実なのに、「何もしなければ危険も不安もない」っていう誘惑にもかられ、暗い顔をしながら悩んでいた。(優柔不断だよね…)

どうしよう、どうしよう、と悩んでいるときに、友達に計画を話してみた。
そして、その女性の一言が私の行動を決めた。「若いときにしか、貧乏旅行ってできないよ。」そうなんだよね、年取ってからじゃ、こんな無謀な計画は立てられない。それに、貧乏だから見えてくるものもあるって思ったら、私の行動は決まった。

出発する!

彼女と話たその日のうちに、学校の寮から20分ほど歩いたところにあるバス会社のオフィースに、1ヶ月の定期を買いにいく自分があった。冬の夕日を背中に受けながら、行くんだ、行くんだ!と自分に言い聞かせながら、落ち葉を踏みしめて歩いたのを鮮明に覚えている。(^^)v

                                                                                                              [2000年1月6日発行]

第15話 旅行-初日の出来事

旅立ちに先だって準備したものは、大きめのリュック、ブーツ、手袋、アーミーナイフ、そして安物のダウンジャケット、等。ほとんどすべて「Kmart」で購入した。Kmartは、アメリカのダイエーみたいなところで、野菜や生鮮食品を除けばなんでも手に入るスーパーマーケットだ。


日本では、一体どこが「スーパー」なのかわからない小さなお店でも、スーパーマーケットと呼んでいるけど、初めて本物のスーパーマーケットに行くと、誰しも感動するよね。

さて、北から南まで、真冬と常夏を1ヶ月の間旅行するのだから、荷物は冬が基準になる。だって、夏は脱げばいいのだから、とにかく凍えない支度を中心に揃えた。

出発に際して、学校の先生からは「寝袋」、あと友人からは「ラジオ受信機のついたウォークマンもどき」を借りた。寝袋は、もちろん野宿を想定したもので、「もどき」は、各地域のFMラジオを聞いてみたいと思ったことと、それから、当時流行っていたオリビアニュートンジョンの「physical」の入っていたテープが聞きたかったからだ。…と、いっても当時の機械は電池の消耗が早いため、一日1時間以内と決めていた。

あまりカントリーソングは趣味ではなかったけど、アメリカの演歌に近いものがあるので、ちょっとスローなそして、ちょっと人生の悲しみを歌う曲は、初めて一人旅をするのに、ちょうど合っていた。

出かける際に、パスポートを持っていこうかどうか、考えたけど、盗まれてしまっては大変なので、寝袋を借りた先生にお願いして持っていてもらうことにした。でも、考えてみれば、もしも事故にでもあって、死んでしまうようなことがあっては、自分の身元がわかるものがいるだろう、…と思い、小さなメモを作ることにした。

その紙には、自分の名前、国籍、パスポートの番号、アメリカと日本の連絡先を書いた。

当時、どれだけ怖かったか、これだけをみても判ってもらえると思う。今でこそ、世界中どこにでも一人で行けるぞ!なんて顔をして仕事をしているけど、当時は、半分死ぬ覚悟をして出かけた。

その紙は、なくしてはいけないので、めったに明けないジャケットの腕のポケットにしまい込み、表紙には「自分が死んだ場合の連絡先」と書いておいた。旅行から帰って、このメモをゴミ箱に捨てる瞬間、『無事に帰ってきたんだ~!』と一人で感激してたのを覚えている。

さて、旅立ちの日。
大学の近くの長距離用のバスの停留場に行ったのは、昼の2時ごろだった。天気もよく、雲一つない青空だったが、不安に慄いている私にとっては寂しい冬の景色だった。特に、バスの窓ガラスは紫外線を遮断するためだろうか、中から見た風景はとても暗く「行くんだな~」と呆然としていたのを思い出す。出発は大学のあったジョージア州のラグランジという街。まずは、アトランタを目指していた。アトランタは南部最大の都市で、南部の中継基地になっていたからだ。でも、もちろん、アトランタで宿泊する予算はないから、なるべく夜遅くに出発するバスを選び、翌日の朝到着するバスを探すことにしていた。

この旅行は、親に連絡も、相談もなしに決めたものだった。私以上に心配性な親は、下手に一人で貧乏旅行するなんて言ったらきっと大反対されるだろうと思ったし、何よりも自分で決めたかった。でも、やはり何も連絡をしないのは、親不孝だと思い、この旅行の最中に何通か手紙を書いた。その1通目を書いた場所は、時間を持て余していたアトランタだ。なんせ、一番遅いバスの出発まで約5時間もあったため、それまでの空いている時間に親への手紙を書くことにした。

夕食を取る目的もあって、バス停に隣接しているバーガーキングに入り、ハンバーガーを一個オーダー。なるべく栄養にするために、とにかく小さく噛みきってゆっくり食べた。

封筒は持っていたのだけど、便箋がなかったので、ハンバーガー屋のトレーの裏紙にこれからの行動計画を簡単に書いて、旅先から手紙を書くから心配いらない旨手紙を書いていた。

そのときだ、ふと気がつくと、黒人が目のまえの椅子に座りたいと言ってきた。
私は、OK.とだけいって、手紙を書きつづけていた。彼は何をしているのか不思議に思ったらしく、何をしているんだ?と質問をしてきたので、何気なく、これから旅行に出るので親へ手紙を書いているんだとだけ伝えた。

しばらくは、私も手紙を書くことに熱中していて、彼の言葉にはあまり耳を貸さなかったが、書き終わってその紙を封筒に入れようとしたとき、親しそうに話していた彼が、突然「バス代がないんだ、金をくれ」。って言ってきた。

そのときまで気がつかなかったが、彼の服装はかなり汚く、抱えているものは紙袋。手に持っていたコーヒーカップは、誰が飲んだか判らない飲み終わったものだった。年齢はたぶん20代後半の男。そのときに始めて彼の顔をまじまじと見たら、結構危なそうな顔つきをし始めていた。もちろん、近くのバス代程度なら上げることは問題ない。でも、財布
を見せたとたん、全部よこせなんて言われたら大変なことになってしまう。

そこで、お得意の「英語が分からない振り」をして”I don’t understand.”と、ニコニコして言ってやった。すると、ご丁寧にゆっくりと、そしてはっきりとした口調で、しかし低い声で、何度か「バス代がないんだ、金をくれ」。と言っていた。

しかし、だからといって、分かったなんて言えるもんじゃない。クビをひねって分からない振りをしつづけていたところ、今度は具体的な金額を提示してきた。

それはなんと、「25セント」!
はっきり言って、これっぽっち?と思ったが、やはり財布を出したらまずいと思い、仕方なく「トラベラーズチェックしか僕は持っていないから現金はない。駄目だ。」と言ってやった。それが通じたのか、通じなかったのかわからないけど、彼は突然私が今まで手
紙を書くのに使っていたペンを取り上げ、ハンバーガーのトレイに敷いてある紙に汚い字で”Geve me 25c.”と書いてきた。

今度は、ものすごい剣幕だ。こりゃ、やばい!
周りにあまり多くの客がいないこの店で、強盗に襲われるのか!!っと、一瞬ヒヤッとした。しかし、その瞬間!なんと、神の助けか警察官が店に入ってきて巡回し始めた。本当に絶妙のタイミング!!

「助かった!」

警察官の影に気付いた彼は、ものすごい剣幕から、突然「満面の笑み」に変わり、お面でも取り替えたのかと思うほど。そして、「ありがとう。良い旅を!」とか言いながら握手をしてきて、そそくさと立ち去っていった。その変わり身に掛かった時間は多分5秒程度。驚きと、緊張と、恐怖感の後、突然訪れた脱力感に私は、しばし呆然としていました。

そして、「やっぱりアメリカは怖いところだな~」と感じながら、ふっと彼の残していった紙を見ていると、Giveとかかれずに、Geveとなっていたことに気がついた。日本の中学生でさえ間違えないような単語のミス。彼の歩んできた人生がどんなものなのかわかりませんが、見ず知らずの東洋人に、25セントの金がないと言わなければならない境遇を考えると、かなり複雑な気持ちになってしまいました。旅立ちの初日から、なかなかショッキングな出来事でした。(^^;)v

                                                                                                            [2000年1月13日発行]

第16話 旅行-知らぬが仏

憧れのニューヨーク。摩天楼の世界!!

グレーハウンドのバス停に到着したのは朝だった。まずは宿探しと、YMCAへ直行、数日間の滞在の手続きを済ます。部屋はベットと机だけの小さな間取りだった。かなり古そうで、何度もペンキを塗り重ねたためか壁面が異様にでこぼこしていた。

部屋は高層に位置していたけど、内側(中庭)に面していたため、残念ながら部屋からニューヨークの摩天楼は見ることが出来なかった。見えるのは、ただ、ずーと下にあるロビーの屋根(多分)だけ…。(^^;) 冬だというのに、温水を循環させる暖房が効きすぎていて、窓を空けていないと暑すぎて寝苦しいほどだったのを覚えている。

学生の貧乏旅行、アメリカ全土を旅できる一ヶ月有功のバス定期を購入した以外に、一日10ドルの予算の旅(予備に200ドル程は別に持っていったけどね)。極力お金をセーブする必要があった。しかし、さすがに冬のニューヨークで野宿することは出来ないので、仕方がくYMCAに泊まったのだけど、その分食費を減らすことに注力した。

よって、初日にまず行ったのは、スーパーマーケット。
5、6個が一袋に入っている「青りんご」と、同じような「オレンジ」、それに「食パン」一斤と、その店で一番安い「イチゴジャム」。これが、三日分のニューヨークでの食事。

私のニューヨークでの活動は、地図を片手に名所や、美術館を巡ることだったんだけど、マンハッタンってでかいんだよね。歩くのだけでとても疲れてしまった。高校生のときに、夏目漱石はロンドン留学中に国からの生活費をすべて学術書購入に使ってしまったため、お金が無く、食事は公園に行って「食パンと水道水だけ」という生活を長らくしたという話を聞いたことがある。

冬の夕方、太陽が傾き始めたセントラルパークで、おもむろに食パンを食べた自分が、その夏目漱石のイメージと妙に一致して、寂しいながらも、ちょっとした感動を味わったりした。それにしても、飽食の時代に産まれた人にとっては、「食パンなんて何も付けずに食べたっておいしくないじゃないか?」って思うだろうし、僕もそう思っていたのだけど、他に何も食べるものがなく、体が本当に疲れているときには、たかが食パンでも、されど食パン。

本当に美味しい!
これが、本当に甘い!!こんなに美味しいものだったのか!ってその時とっても感じ入ってしまった。隣のベンチには、浮浪者の叔父さんだろうか、夕日に当たりながらちょっと
背中を丸めている様子が、人生の空しさを感じさせた。

私のニューヨークに関しての知識は、お恥ずかしながら非常にプアーで「自由の女神」、「エンパイヤーステーションビル」、「セントラルパーク」という小学生レベルだった。マ~さらにしいて言えば、ゴルゴ13の『サウスブロンクスという場所は、非常に怖いところ』という程度のものだった。

サウスブロンクスという場所がどこなのか、まったく知らなかったけど、とにかく「サウス」という言葉がついているくらいだから、マンハッタンの「南」が怖いところなんだろうと思い込んでいた。それが素人の浅はかさ、後で怖~い思いをさせられる原因。

たまたま、ガイドブックにニューヨークの動物園が面白いと書いてあったので地図で調べるとセントラルパークの北の方向。北の方なら安心だろうと思い、ニューヨーク動物園を訪れる目的で、とことことセントラルパークを南から北へ突っ切り、一生懸命歩いた。なんせ「北」は安心だと思い込んでいたから、意気揚々!

でも、でっかいよねセントラルパークって、これが人工の公園だなんて思えない。この都会のオアシスがなければきっとニューヨークはもっと殺伐としていたんだろうな~と感じながら、とにかくもくもくと公園の中を進んでやっと北の門にたどり着いた。そこまでは良かったのだけど、公園の外に出た瞬間、雰囲気がガラッと変わったのに驚いた。セントラルパークの南側の摩天楼の華やかな様相から一転して古臭い低層の建物ばかりに変わっていたらからだ。多少の不安はあったものの、『北は安全だ!』と信じ込んでいた私は、地図見て「そこからニューヨーク動物園まで4km」と、とにかく前進することにした。

どんどん進んで行くと、黒人の比率が大きくなってきて、建物も、廃墟みたいになっているものや壊れかけのビルが多くなってきた。ちょっと薄気味悪い。時折、1940~50年代頃にはきっときれいな町並みだったんだろうな~なんて感じさせる、ボロボロの商店街が少し気休めになったけど、街の風景に自分が馴染んでいないのを感じると、背筋が寒くなる思いだった。

歩けど、歩けど、目的のニューヨーク動物園の案内は一向に見えてこない。

不安に駆られながら、それでもセントラルパークから一時間ほど歩いた。でもどの道路にも、、”ZOO”の文字さえない。いくらなんでも、そろそろ動物園は近くにあるはずだ!と、気持ちを奮い立たせてはみたものの、立ち止まって地図を広げる勇気さえない。そんなことをすれば、一発で観光客だってことがわかってしまうからだ。

襲われる!と思うと、歩く速度はどんどん速くなっていった。言い知れぬ恐怖感。

気がつけば、前も後ろも、完璧なスラム街!!
「もう少しで、ニューヨーク動物園、もう少しで….」と進むうちに道に迷ったらしい。「オドオドとした」、なんてもんじゃない。身の危険を感じ、引き返すことも考えたが、もう一度アノ同じ道を1時間かけて逆戻りするなんて恐くてできない。息を切らせ、必死になって歩いていた私は、このまま真っ直ぐ歩いて大きな道に出てバスを捕まえるしかないと判断した。

幸いにも、バス停はすぐに見つかった。どこ行きのバスなんて関係ない、とにかくこの場所から早く脱出することが最大の命題になっていた。あれほど黒人の目が、怖く感じたことはなかった。リッカーストアー(酒屋)の前で何人かでたむろっている黒人たちが、こちらのことジ~と見つめている。真っ黒な肌にドロ~んとした目。

それに、気がつけばその視線は四方八方から感じられた。
ボロボロの団地の窓から、道の反対側から、そして今来た道の方面から、….。本当に、狙われている獲物になった気分だった。バス停に立ち尽くし、平然を装うとすればするほど、ぎこちない動きになってしまう。彼らは何をしてくるわけでもないのだけど、見つめるその「目」が怖かった。

「このままでは殺されてしまうかもしれない!」と感じた私のとった行動は、なんと「空手のマネ」だった。(^^;)自慢じゃないが、運動神経が鈍い私は空手なんて出来るはずもないのだけど、恥も外聞も無く、とにかく『達人』を装って、俺に近づいて見ろ!この鉄剣で打ち倒してやるぞ!とばかりに、一人練習をしてたい。(f^^;)東洋の神秘である空手は、黒人の間ではものすごく「憧れ」であると共に、「恐怖」であるらしい。

 

一度アトランタに遊びに行ったときに、何気なく映画館に入ったところ、香港映画を放映していて、何かというと「復讐(リベンジ)」という言葉が頻繁に出てくるカンフー映画をやっていた。その映画館の9割以上が黒人で、その黒人たちの興奮しきっていること、してること。今になって振りかえると、お恥ずかしい限りだけど、本当にそのときはテレビで見たような「型」をやってみたりしながら、必死になって時間をつぶした。(^^;)ヘヘヘ

でも、5分経っても10分経っても、バスが来る気配がない。空手の達人(?)も、これには参ってしまい。そこで初めて落ち着きを取り戻し、時刻表をみた。

 

シ、シ、しかし!
そこに書いてあったのは、時刻ではなく、単に”Frequent Service”という一文字だった。ガガガガガ…..、私は、あまりにも驚いてその場で座り込みそうになってしまった。当時の私の英語力と精神状態で、この言葉理解不可能。本来「しょっちゅう来る」と訳すべきなのに、なんとそのときは「たまに来る」にと訳してしまったのだ。

人間、究極の状態には涙なんて出ないもので、なんとも、そのバス停で私はへらへら笑ってしまいました。「神様は私を見捨てた~…」とクラクラしていると、遠くからエンジンらしき音、左側の遠くからバスが見えてきたのです。

「命拾い」とは、こういうことを言うのだと、つくづく感じていました。

バスに乗り、無事にマンハッタンの中心部にまで戻ってきた私は、安堵感でまだ夕方3時だったにも関わらず、そのままYMCAに戻って休むことにしました。本当に、本当に、恐かったのです。

ちなみに、この旅行から帰ってから調べてみたら、その場所は、絶対に行かない!と決めて行った「サウスブロンクス」だったのです。つまり、サウスブロンクスとはブロンクスの南で、マンハッタンの南ではなかったのですね。何たる皮肉!ニューヨーク滞在の初日から、何とも大変な思いをしてしまいました。でも怪我もなく、命もきちんと持って帰ってこれたのだから、やっぱり今となっては笑い話ですよね….。(^^;)v

                                                                                                            [2000年1月20日発行]

第17話 battery park 駅

前回に引き続き、今回もニューヨークでの話。

以前も、地下鉄話しをしたことがあったけど、ここでは私の恐怖の体験をご披露しよう。なんてったて、自分の経験に基づいた話しは迫力が違う!(f^^;)

さて、私が始めてニューヨークの地下鉄に乗ったのは、始めてニューヨークに着いた翌日。地図を片手にアメリカのシンボル「自由の女神」を見に行くためだ。12月中旬のニューヨークは思いの他寒く、数日前に降った雪が道の横に山積みにされていた。

滞在していたYMCAの近くの地下鉄の駅の入り口、地下へ降りる階段を進んでいるときの「緊張感」、今でも忘れられない。寒さのせいもあったのだろうけど、膝がガクガク揺れていた。

なんせ、悪名高き地下鉄という前評判に洗脳されていたから、前後左右気にしながら暗い階段の先にあった改札へ向かった。でも、よく見ると朝の10時頃ということもあって、多くのビジネスマンがいたし、女の人もスーツ姿で駅のホームで何気なく新聞を読みながら時間をつぶしている様子があちらこちらに見えた。

ホッと胸を撫で下ろし、「そんなに危ないことはないだな~」とちょっと安心することができた。でも、マンハッタンの中心街から南に進むことは、私にとってはとても不安があった。前回書いたように、この時点ではまだあの「サウスブロンクス」はマンハッタンの南にあるものと信じていたからだ。(^^;)

『ゴルゴ13』の先入観で、ニューヨークの闇の世界、悪の巣窟と言えば「サウスブロンクス」とお決まりだったし、South、つまり「南」の方向は危ない地域だと思いこんでいたためだ。私の頭の中では、マンハッタンの南端にある自由の女神への道のりは危険地帯に足を踏み入れるのと同意義だったのだ。

ましてや昨日「北に進めば大丈夫」だと信じていたのに、「あんな目」にあったのだから、めちゃくちゃ臆病になっていた。サウスブロンクスとは、「ブロンクスの南」であって、場所的に言えばセントラルパークの北に位置し、マンハッタンの南ではない…。でも、それを知ったのは旅行から帰ってからだ。よって、当時の無知な私にとってはニューヨークの南は本当に「恐怖の地帯」だった。

「自由の女神」へはどこの駅で降りたらいいのかは、YMCAの人に聞いたからBattery Park駅だと知っていたし、地下鉄の終点になるという説明もしてくれたから、乗り過ごすこともない。でも、命を奪われるかもしれないという緊張感で、私は目をぎらぎらさせていた。

ホームで電車を待っているビジネスマンやOL達と一緒に電車に乗り込むと、まず一番始めに目に付いたのは、スプレーで描かれた意味のわからない落書き。「汚ね~!」っと思ったのが第一印象。これが、私の臆病な気持ちを逆撫でしてしまった。


乗っている人達の表情からして、絶対に安全だということは分かっているはずなのに、映画で見たような乱暴なシーンが頭をよぎり、ド~と淀んだ気分になってしまっていた。大体、地下鉄に乗ること事態私は嫌だった。


サウスブロンクスのことが気に掛かっていたから、YMCAの人には始め「歩いていきたい」と伝えたのだが、フロントの彼らはみんな「安心だから心配いらない」。と言ってくれたし、それに、「遠くて歩いてなんていけないから」と忠告してくれたから乗っただけで、気の小さな私は、不本意に地下鉄を利用したのだけに過ぎなかった。

まるで、一人っきりでお化け屋敷に足を踏み入れたような、誰も助けてくれない、背筋の寒~い思いをしていた。電車は、どんどん進んで行き、駅もいくつも通り過ぎていった。
緊張していた私は、どの駅からもほとんど人が乗ってこないこと、そして少しずつ、少しずつ乗客が降りていく様子を見て、さらに緊張の度合いを増して行った。

不気味な現象に見えた。
そして、Battery Park駅の一つ手前の駅についたときには、なんと私一人残して車両の中には誰もいなくなっていたのだ!!

私は、めちゃくちゃ緊張していた。カチンコチンになるくらい、緊張していた。

心の中では、「ここで取り乱してはいけない。」「ここで取り乱してはいけない。」…と、何度も何度も繰り返して自分に言い聞かせて、頼みの綱のスプーンやフォークの付いたアーミーナイフ握り締めていた。

誰も乗っていない地下鉄の電車は不気味だ。
最後の一人の乗客が降りて電車の扉が閉まった瞬間、「ヒ、一人だけだ...。」と強烈に感じた。唯一の心の救いだったのは、次の駅が目的のBatteryPark駅だったことだ。「あと一駅」、「あと一駅」….。呼吸を整えながら次の駅を必死の思いで待っていた。

電車はガタガタ音を鳴らしながら進んだ。
真っ暗なトンネルの中、私以外に誰も乗せていない車輌は不気味で、揺れるたびにすべての吊革がまったく同じ周期で動いていた。「フッ」と気がつくと目の前のガラスに映っている自分のおどおどした姿が、まるで他人がそこにいるような、自分であって自分でないような、別の次元へ飛び込んでしまった…、そんな気持ちになっていた。

電車は、しばらくして急に減速したかと思ったら、停まった。
それも、真っ暗なトンネルの中で。

「い、いったい何が起こったんだ?!?」と思ったときには、本当にパニック状態に陥ってしまった。だって、Battery Parkの駅についたはずなのに、そこには駅もなく、あるのは只只暗闇の地下だけだった。

私は、ゲゲゲの鬼太郎の世界に紛れ込んでしまったのかと思っていた。
トワイライトゾーン状態だ。もしかしたらこの世界から一生出ることができないのかもしれない、と不安がよぎり、今まで恐怖をこらえて座席に座っていたが、ついに耐え切れなくなり、車両の中をうろうろし始めていた。

「落ち着け」「落ち着け」、…と、言い聞かせながら、何が起こっているのか、どうして駅に着かないのか、私はどうしたらこの事態から抜け出せるのか、…必死に考えて車両の中をうろうろしていた。誰もいない、何も起きない、そして静寂の中、自分の足音だけが心臓の鼓動を感じさせない唯一の音になっていた。息が荒い、呼吸が苦しい、…。

すると、ズ~と前方車両に小さな人影が見えた。

「た、助かった!!」

私は走った。


必死になって車両と車両の間の扉をバタバタ開けながら、前方の人影に向かって全速力で走っていった。どこの車両にも誰もいなかった、後ろから誰かが追っかけて来るかもしれないという不安を消すためにも、一生懸命走った。不気味で怖かった。


そして、やっとその人の側にまで行ったら、その人は駅員さんだった。私はその駅員さんに、「ここはどこですか?!駅はどこですか!!!」と言葉にならないような叫び声を上げ、「助かった~」と気の遠くなる思いで駅員さんの顔を見つめていた。

駅員さんは、「どうしたの?」と怪訝そうな目つきで私に話してきたのだけど、その言葉の意味を理解するまで落ち着きを取り戻すことは出来なかった。でも、助かった。本当に、良かった!とやっと気持ちを落ち着けてその駅員さんの話しを整理した。

すると、なるほど~。とすべての理由がわかった。


…タネを明かせば、そんなに驚くべきことではなかったのだ。

理由はこうだ。Battry Park駅はマンハッタン島の最南端に位置する。基本的にそのエリアは有名なWall Streetのあるビジネスエリアよりも先で観光客くらいしか人が来ないのだろう。このあたりはほとんど人は住んでいない。


だからBattry Park方面に向かっていくに電車には、あの朝の時間帯、降りる人はいても乗る人はほとんどいないというわけだ。そして、ついにBatteryPark駅に到着したときには、たまたまそういった理由で、私一人しか残っていないことになってしまったのだ。

それでは、駅に着いたときに、何故真っ暗の世界に停まっていたのか?
これも理由はしごく簡単。ほとんど人の出入りがない駅だと、すべての車両用にホームをつくらずに、前方の数両だけにプラットホームがあるってことが、日本にもある。このBattery Park駅は、地下鉄の駅にも関わらずそういうタイプの駅だったらしい。私が乗った車両がたまたま後ろの方に位置していたから、そこにはホームが存在していなかったのだ。当然、地元の人はそんなことは知っているから、誰もその車両には乗っていなかったわけだ。

ヘヘヘヘッ….、おハズカシイ。(f^^;)

浅知恵の先入観が、勝手に私の心の中に恐怖心を植え付けてしまっていたんだよね。でもこの体験で、「未知の不安への立ち向かい方」を学んだような気がする。このときから、言葉の通じない国に行っても安心して生活することができるようになったのだから、人生「塞翁が馬」だ。

君も、Battery Park駅に行くことがあったら、後ろの車両に乗ることを勧める。
カラ~ン、コロ~ンともしかしたら、鬼太郎の下駄の音が聞こえてくるかもしれない….。最近は、リング0の貞子の亡霊かもしれないけど….。フフフフ…(^^;)v

                                                                                                           [2000年1月27日発行]

第18話 海外出張 - 番外編

一人旅の続きをしばらく続けるつもりでしたが、出張から帰ってきて、記憶が新鮮な内に私の感じたアメリカの最新情報をご報告すべく、ちょっと留学そのものとは違いますが、ご紹介したいと思います。(次回から、また留学時代の旅行の続きを書きますね。)

1)「US Citizen」 と「日本国民」
飛行機の中で何気なく耳にした、二つの国の人を現す言葉。でも、よ~く、噛み締めてみるとなかなか奥の深いものがあります。Citizenって言葉は、自立した人達のことです。たとえば、イギリスで有名なCITYという地域がありますが、歴史上、英国王室と遣り合ったほどの、独立した人達の集まりでした。Cityの人で、Citizenですからね。(もちろん、もっと昔のギリシャだかローマだかの時代に語源はあるですが、基本的に意味は同じだったと記憶しています)


ですから、US Citizenという言葉は、「United Statesを成り立たせる人たち」という意味合いが強い気がします。反面、国民という字は、「国の民(たみ)」ということです。この民という字の由来ですが、『針を手に持って目を刺す』つまり、為政者が、自分の領地の人達を従わせるために目をつぶすということを指しています。ですから、国を成り立たせる人達の意味合いではありません。国に従わさせられるのか、それとも国を立たせるのか、….。Japanese citizenとして、生きて行きたいものです。

2)飛行機の乗り方(機内での過ごし方)
ちょっとした飛行機の乗り方の「極意」を伝授しましょう。(^^)v
① 持って行くもの
マスク、アイマスク、耳栓、リップスティック、スリッパ
飛行機の中はめちゃくちゃ乾燥しています。喉を痛めると風邪をひきやすくなるものです。折角現地についても、風邪じゃ楽しみも半減しますからね。気をつけましょう。それから、靴を履いたままだと、疲れやすいので、スリッパをお忘れなく。


② 座席の確保(その1)
満席の場合は別ですが、多少でも余裕があるようでしたら、是非成田のチェッキングカウンターで、「隣を空けて欲しい!」とリクエストしてみましょう。隣が空くだけで、精神的疲れが半減します。


③ 座席の確保(その2)
隣を空けるのと同様に、足が十分に伸ばせる場所を選びましょう。
つまり、非常口の前がベストです!フライトアテンダントさんとお友達になれる機会もできますよ。(^^)


④ ブランケットを2枚
体の熱を奪われすぎないように、ブランケットを一枚は足腰に、もう一枚は上半身に使いましょう。追加料金は取られませんからご心配なく。(^^;)

3)発想のポイント…当たり前を止めよう!
ホテルで切手を購入しようとしたら、お店のおじさんが「切手はこの機械で売っている。」と言って、カウンターの端にある小さな自動販売機を指差してくれた。ふと見ると、そこには懐かしい電気不要の自動販売機が置いてあった。


仕掛けは簡単で、機械仕掛け。25cと10cのコインを刺し込むところがあって、それにきちんとコインを入れて押し込むと手に入れたいものが出てくるようになっている。

私は、60cの切手を買いたかったので、25cを二枚、そして10cを一枚準備したが、よ~く見ると、こう書いてある「20cの切手を一枚購入するのに35c入れろ」と書いてあるのだ。つまり、60c分の切手を手に入れるのに、$1.05が必要なのだ。

なんだ!?!
とは思ったが、時間もないし、たいした金額でもなかったので、指示通りに20cの切手を一枚購入する度に25cと10cコイン刺し込み、ガチャッと音を立てながら3回同じ行為を繰り返した。すると、厚紙に挟まっている20cの切手が3つ出てきた。つまり、厚紙に挟める手数料が一枚当たり15cということらしいのだ。

日本人にとっては、どこの店で切手を買っても額面通りの金額しか請求されない。でも、こうやって付加価値をつけるとアメリカでは商売ができるのだ。ビジネスの芽って、こんな発想から出てくるものなんだろうな~と感じた次第。当たり前だと思った途端、考える気持ちがなくなるもの、新鮮な気持ちを持ちつづけることの大切さを感じた。

4)Chicken or Beef ?
長距離の飛行機に乗ると、必ず食事が何度か出てくる。

なんとも味気のない料理だが、昔は結構美味いものが出たらしい。なんせ、あの高嶋兄弟の両親は新婚旅行でハワイに行った際に、一人当時100万円も払ったというのだから、そりゃ美味いものでも出さなければ、客が怒っただろうことは想像がつく。それにしても、最近は旅費が安くなったから、留学生も4年間の間に一度や二度帰ることが可能だから
ありがたいものだ。

さて、その料理だが、必ず2種類からの選択だ。
あの金属のカートを引っ張ってきて、隣にまで来ると”Chicken or Beef?”の様に聞いてくる。マ~回教徒の人に豚肉は出せないし、ヒンズー教の人に牛肉が出せないのは分かるが、なんとも味気ない質問だ。

だって、料理は「材料」ではない。
たとえば、豚肉一つをとっても、酢豚もあれば、トンカツもあれば、ポークカレーだってある。それを、単に材料だけで何を食べたいか聞いてくるなんて、やっぱり西洋では基本的に「食文化」がいかにプアーであるかを象徴している気がしてならない。

留学をして誰でも恋しく思うものは、日本のバラエティーに富んだ食事だからね。

さて最後に、今度日系以外の飛行機に乗って同じ質問を受けたら、是非こう答えてやろう “Beef and Well done please!”と、…。(f^^;)

どんな返事が返ってくるか楽しみでしょう!
まだまだ手帳に何枚かメモがあるのですが、今回はこの程度にしておきます。是非ご紹介したいことがまだまだたくさんあるので、またいつか機会を作りますね。(^^)v

                                                                                                             [2000年2月3日発行]

第19話 旅行 – 寂しい大都会

再び、一人旅の続きです。

ニューヨークの滞在も最後の日となった。

 

今回もバスの中で一夜を過ごす計画だったので、午前中ユースホステルをチェックアウトしてから夕方になるまでの時間、マンハッタンを歩き回った。ただ、最後の日は荷物を背負う必要があったので、数日間軽快に歩くことに慣れた私にとってはかなり重労働だった。それに、憧れのニューヨークへ滞在した思い出をかみ締めて歩くと、心なしか気持ちが沈んでいたのが理由だったのかもしれない。

貧乏学生の私には、ニューヨークにまた来るなんて全然考えられず「もう二度と来ないんだろうな~」と感じていると、摩天楼がとても高く感じられた。(実際にはこの後、今までに3回訪問しているのだが、その時には予想も出来なかった。)

滞在期間中は、お決まりの観光ツアーコースである、自由の女神、World Trade Center、エンパイヤステーションビル、そして各種美術館を勢力的に見てまわった。あまりにもたくさんの名画を鑑賞したために、自分でも描けるかと想い寮に帰ってから絵の道具を買った。しかし、実際に描いてみるとどうもあの美術館にあった絵のようにうまく描けない(当たり前だけど(f^^;))、結局、夢が破れるまでにあまり時間は掛からなかった。芸術の才能がある人は、うらやましくてならない。(^^;)

マ~、重い荷物を背負っていたので、さすがに面倒になり、4時頃にはグレーハウンドのバス停に行ってしまいました。それから、5時間くらい待つことになるのですが、人間観察でもしていようと、ボ~とバス停に来る人の様子を眺めていました。

バス停とは言っても、日本で言えばちょっと大きめの「駅の待合室」のようになっており、十分休むことができるスペースがありました。長い時間を過ごしていましたから、バスが何台も出入りし、多くの人たちが私の目の前を行き来したのですが、なぜか数名の人達は、私と同じようにず~と動きません。「もしかしたら、同じバスにでも乗るのかな~?」と思ったりしていたのですが、実は違っていたらしいのです。

それがわかったのは私が居眠りしていた最中です。

カンカンカン!と何かを叩く音がしたのです。目を覚ましてフッと見ると、先ほど座っていたおばあさんの椅子を警察官が警棒で叩いていたのです。そして、そのおばあさんを怒鳴り付けて、「出て行け!」と言っていました。多分、そのおばあさんはホームレスで、行くところもなく、暖を取る目的もあり、バス停で一日中座っているのだと思います。それを知っている警察官が、「ここはバスを利用する人達の場所だ!」と言って追い出しにかかっていたのです。

しかし、外はもう日も暮れて、真っ暗。それに、真冬の寒さが待っています。
彼女の荷物らしい荷物は、ペーパーバック2つだけ。年齢を推察すると、多分70歳くらいに見えました。そんなお年寄りに向かって、警察官はきつく注意していたのですが、やはり出て行きたくないらしく、そのおばあさんは椅子にしがみついていました。すると、警察官はそのおばあさんの首根っこを掴んで強引に引きずり出したのです。

私はちょっと驚いてしまいました。
だって、年齢からすれば自分の祖母くらいの人です。そんな人に、暴力をふるっていたのですから、心が痛みます。この騒ぎは、時間にしてほんの一、二分ですが、私の記憶に残るとても悲しい思い出の一つになってしまいました。

警察官のやっていることも、仕方ないことです。だって当時はものすごい数のホームレスがニューヨークを徘徊していましたから、ほっておくとバス停がホームレスだらけになってしまうからです。しかし、なんとも「せつない」ニューヨーク最後の思い出となってしまいました。(@_@)

                                                                                                            [2000年2月10日発行]

第20話 旅行 – マッサージ

ニューヨークを出発して、ワシントンDCに到着したのは明け方だった。
まだ陽も登っていない明け方4時頃、寒さと眠さで不機嫌でしたがバス停から歩いてYMCAへ向かいました。数日滞在するための宿を確保するためです。バス停からYMCAまでは歩いてほんの数分だったと記憶しています。


しかし、あまり早くチェックインすると、昨夜から泊まったことにされると思い、少なくとも太陽が登るまで待つことにしました。背中に重い荷物を担ぎ30分ばかり入り口でウロウロしていましたが、昨日まで降った雪が氷になるほどの寒さの中、さすがに寒さに耐え兼ねて、「ここは兎に角交渉するしかない!」と決意を決め、呼び鈴を鳴らしました。

もちろん、こんな時間は普通の人はまだ床の中、呼び鈴を鳴らしても出てきてくれるか心配でしたが、冷え性の私はもう足が凍りついてしまうかと思いながら、続けざまに2回ほどベルを鳴らしました。すると、中から眠い目を擦りながらおじさんがドアを明けてくれました。

まずは、「おはよう!起こしてしまったかな?部屋はありますか?」と尋ねました。するとおじさんは、特に不機嫌な様子もなく、「いやいや、いいんだ。」とニコニコしてくれて「部屋ならあるよ。」と答えてくれました。

私は、すかさず「『今夜と明日の晩』泊まりたいのだけど…。」と伝えて、これから床について休む分は今日の分に含めて欲しいということを何気なく伝えたのです。するとおじさんは、私の言っていることを理解してくれたらしく、「大丈夫、チェックインは昨日じゃないからね。」と笑って言ってくれました。

バスの中でほとんど寝れなかった私は、もうろうとしながらそんな会話をし、お金を支払った後とても静かで暗いロビーを通り、みんなが寝静まっている部屋の方へと向かいました。

ニューヨークでユースホステルに滞在してた私は、多分同じような部屋なんだろうと思いドアを明けたのです。すると、中からゴソゴソという音がしました。真っ暗な中、よ~く目を凝らして見るとその部屋の両側に2段ベットがあり、三人ほど寝ている様子でした。

私は”I’m sorry.”と言いながら、そ~とドアを閉め、電気もつけずに荷物を解き、靴を脱ぎ、ベットに横になりました。横になって寝れる幸せを感じながら、とにかく疲れた体を横たえ眠りについたのです。

目が覚めたのは、10時ちょっと前でした。
すでに他の人たちは外出したらしく、部屋の中には私一人しかいません。面倒くさがりの私は、もう少し眠りたかったのですが、「折角ワシントンにまで来たのだから探索しないと」と意を決し、外出の支度をして外に出ました。外は天気も良く、寒いながらも青い空がとても綺麗でした。

昨夜の疲れも無く、ワシントンDCでもかなり精力的に歩き回りました。
スミソニアン博物館、国会議事堂、ホワイトハウス、FBI等々、丸一日陽が沈むちょっと前まで、ヘトヘトになりながらも黙々と歩きました。感じることもたくさんありましたが、そんなことを書いても仕方ないのでその辺は割愛して(^^;)….、夕方にYMCAへ戻りました。(でも月の石に触れたときには、アームストロング船長の気持ちになったりして…(f^^;)。それから、年間何万人もの人がその石を触るはずだから、いずれは磨り減ってしまうのではないかといらぬ心配をしたりしていました…。)

ヘトヘトになって戻った私は、早速部屋に戻りました。
私はまた数人の人が部屋にいるものだと思って、”Hello”と言いながらドアを明けて中に入って行りました。ところが、明け方人が寝ていたベットは片付けられており、一人黒人の人だけが「パンツ一丁」で柔軟体操をしていました。「多分他の人達はまだ帰ってきていないんだろうな~」なんて思いながら、柔軟体操をしている黒人のあんちゃんに自己紹介して、何気ない会話をしました。「他の人は、まだ戻ってきていないの?」と質問したところ、「彼らはもうチェックアウトしたよ。」と教えてくれました。

彼は、ちょっとぶっきらぼうに話す口調でしたが、結構話好きなようで、何かと話しかけて来ては、「筋肉を良くほぐさないと疲れが取れない」とかいいながら、鏡に映っている自分の肉体に惚れ惚れするらしく、柔軟体操の合間にボディービルのカッコをしたりしていました。私は、そんなことにお構いなしに疲れたな~と思いながら、親に絵葉書を書き始めました。

床には古ぼけたカーペットがひかれており、裸でそんなカーペットの上で横になって柔軟体操をする黒人の気が知れないな~と思いつつ、ペンを動かしていました。彼の突然のあの言葉がでるまでは….。

彼は何を思ったか、私に向って「マッサージしてくれるか?」と言ってきたのです!!

マッ、マッサージ?!?私は、目を丸くしてしまった。しかし、見ると彼は既にその汚いカーペットにうつ伏せになって私がマッサージすることが至極当然のごとく待っていたのです。

何故、この私が彼をマッサージしてやらなければいけないのか?と、混乱した頭の中で思ったりしたものの、あまりにも突然のリクエストに私は断るすべもなく、仕方なしに彼の背中を指圧してやるはめになってしまったのです。(ちなみに、私にはマッサージする趣味なのないので、誤解のないように!女性なら別だけど….(f^^;)冗談冗談)

ご存知の方もいると思いますが、黒人の人の髪の毛はチリチリです。
それは、うぶ毛にいたるまで「チリチリ」で、彼の背中に生えていた体毛も短くカールがかかっていました。それがとっても気持ちが悪く、指圧をする指先で感じるその感触がなんとも言えずイヤでした。また「俺何やってるんだ?」とか思うと断りきれなかった自分が情けなくもあり、半分ヤケになっていました。

しかし、どんなにバカなお人よしであっても、彼の腰から下をマッサージする義理はなく、適当に「ハイ、これでおしまい。」と言って数分で止めることにしました。彼はそれが短すぎると感じたらしかったが、私が再び机に戻って絵葉書を書き始めたら諦めたらしく「風呂に入る!」と、起き上がりシャワールームの方へ行きました。

私は「ホッ」とした気持ちで机に向かっていましたが、彼のチリチリの短い毛が指の爪に入っていたので、またとっても気分が悪くなっていました。マ~変な体験だったけど、過ぎたことは過ぎたこと。と、割り切って手紙を書き始めましたが、フッと我に帰って今の状況を考えてみました。

ここは「密室」…。そして、彼はなんとなく変わった奴。

昔流行ったビレッジピープルの「YMCA」が頭の中で流れてきました。以前誰かが、「アメリカではホモの歌なのに、日本で西城秀樹が歌うと青春の歌になる…。」なんて皮肉を言っていたのを想いだし、段々バラバラになっていたジクソーパズルから絵が見えてくるように、私の心にある疑心が浮かんできました。

モ、もしや、私は『ホモ』と一緒にいるのではないか…..?!?!?
背筋が、ゾ~としてきました。ソ、そうだよな~。普通の人はマッサージなんて頼まないよな…、絶対に何か変だよな~….。などなど、止め処もなく悪いイメージが頭の中に浮かんできたのです。ヤ・バ・イ! …(+_+;)

私はそそくさと、ニューヨークの地下鉄で握り締めた「アーミーナイフ」をバックから出してポケットの中に隠し、『来るべき瞬間?!?』に備えることにしました。そんな私の行動を知らない彼は、アメリカ人には珍しく長風呂を楽しんでいました。風呂タブにお湯を浸している様で、ゴ~っというお湯を入れる音が聞こえてきました。この音がしている間は安心なので、私はヤバイ、ヤバイと思いながらどう対処すべきか思案してました。しかし、思案の結果が出る前に彼は今度はバスタオルを腰に巻いて、バスルームから出てきたてしまったのです。

私は、恐怖感を隠しながら、平然を装い手紙を書いている振りをしました。
すると、後方から「君も風呂に入るだろ?」と言ってきたので、何気なく「ああ」と返事をした私は、「ハッ!」とある事実に気がつきました。

 

風呂に入る → 裸になる!!コ、コ、これはまずい!!!

しかし、その時点でもう既に遅かったのです。
私の返事を聞いた彼は、またバスルームに戻っていったのです。そして、またあのゴ~というお湯を入れる音をさせているではないですか!エッ?!私のためにお風呂を作ってくれているの?そうなのです、彼は私のためにお風呂を作ってくれていたのです。

ヨ~ク考えてみると、彼はさっき「シャワーを浴びるか?」という質問ではなく、「風呂に入るか?」という質問をしてきたのです。

私の危機感はピークに達していました。
「服を脱いだら最後だ。」と思った私は、風呂場から戻ってきた彼が「お風呂できたよ」と言う言葉を聞いた後、すかさず「風邪をひいたみたいだから、今日は入るの止める」と答えました。すると、彼はとても怒りはじめたのです。


「お風呂入れたんだから、入りなよ!暖まれば風邪だって飛んでいってしまうよ。それに、(赤ちゃんの粉ミルクのような大きさの缶を見せて)筋肉の疲れを取る薬品を入れたのだから!」と、私に執拗に迫ってきます。しばらく、抵抗していた私は、彼の熱意(強引さ?)に負けてしまい、「それじゃ、入るよ。」と成ってしまいました。(本当に気が弱いったらありゃしない!(^^;))

しかし、「裸になったら最後」ですから、どうしようか考えました。まさか服を着たままお風呂には入れないですから、まずバスルームまで服を着たまま入って、そこにあったバスタオルをびしょびしょになるまで濡らして、ドアの下に押し込み、ドアを簡単に開けられないようにし、もちろん、あの「アーミーナイフ」を懐に忍ばせて行きました。

もちろん、お風呂なんて楽しんでいる精神的余裕はありません。
そそくさと湯船に浸かり、体を洗ってほとんど「カラスの行水」状態で上がりました。風呂場から出るときには、しっかり服を着込み、彼の前で「裸」になることのないように努めました。彼は、あまりにも早い入浴だったので、怪訝な顔をしていましたが、そんなことを気にしている余裕はありません。なんせ、この私の身を守るのが先決でしたから。

それから、また気に掛りはじめたことは、寝ている間に襲われたらどうしよう。と言うことでした。寝ている間は無防備です。フッと目を開けたら彼の顔が目の前にあって、身動きが取れなかった!なんてことがないように注意を払わなければなりません。

それならばと、考え付いたのが「寝袋」でした。

学校の先生から借りてきた寝袋が、こんな所でも役に立つとは思ってもいませんでした。ベットには、もちろんブランケットもあるのですが、それを使わずに寝袋にくるまりベットで寝たのです。これならば、仮に襲ってきたとしても、寝袋を剥がすのは大変です。多少は防御できると思ったのです。もちろん、ここでも身をまもるために「アーミーナイフ」を枕の下に忍ばせました。

お風呂から上がった私は、「寝袋」に包れ、彼と会話をしないように、すぐに床につきました。あれは多分9時頃だったでしょう。「こんな早く寝るのか?」と質問されましたが、疲れたから…と言って横になりました。でも、やはり襲われるかもしれない恐怖感で、目はつぶっても寝てはいけない、寝てはいけないとしばらく必死に眠気を堪えていました。しかし、いつしか意識は遠のき、深い眠りについてしまったのです。

….朝が来ました。
私は、昨夜の寝袋に包ったときと同じ状況に自分がなっているか、まずは調べました。見た限り、寝袋を剥がされた形跡はなく、自分が無事だったことに安堵感を覚えました。

ヨカッタ~!

それから部屋を見まわすと、彼は既に外出したらしくいませんでした。私は、何はともあれ自分が無事だったことに安堵しました。すると、急に腹が減ってきたのです。昨夜は結局服を着たままだったので、そのまま起き上がり、食堂でもあるかな~と思いYMCAの地下に行ってみました。

 

地下といっても半地下なので、窓がありそんなに暗い雰囲気はなく、料理の匂いに誘われて少し進むと、そこには宿泊者が利用できるキッチンがありました。何気なく覗くと、昨夜の黒人のルームメイトがいたのです。もう密室ではないですし、他の人も回りにいたので、”Good Morning!”と声をかけたのです。すると、彼は私に「お腹は空いていないか?」と言ってきました。私は、「空いている」と答えると、冷蔵庫の中から卵を二つ
取り出して、何と目玉焼きを作ってくれたのです。

私は「ありがとう」と言って、彼の作ってくれた目玉焼きを食べましたが、食べている最中に、冷蔵庫の中から、「このクッキーうまいんだ」と一袋くれたかと思うと、私がうれしそうな顔をしたからでしょうか、次には袋に入った「にんじん」をくれました。

…..(@_@)?!?
目玉焼きを食べ終わる頃には、私は昨夜の猜疑心はいったいなんだったのか分からなくなり始めていました。もしかしたら、彼はとっても良い奴で、単に私が彼を誤解していただけかもしれないと思い始めていたのです。もしも、そうだとすると、私はなんと彼に対して悪いことをしたのだろうと思うと、居ても立ってもいられず、彼に「私は、あなたの事を誤解していたのかもしれない。」と言いました。しかし、彼は私の言っている意味が分からなかったのか、キョトンとした顔をしただけでした。

でも、私はとても感激していました。
それから、私は彼からもらったクッキー一袋と、にんじんを手に持ち再び雪の降り積もったワシントンを歩き回ったのです。そして、にんじんってこんなにうまい食べ物だったのだと、ニューヨークで食パンに感動したのと同じくらい感激しながら一日過ごしたのです。本当に不思議な思い出です。(@_@)

                                                                                                          [2000年2月17日発行]

第21話 旅行 - バスの中

前回は冬のワシントンでの「摩訶不思議」な体験をご紹介しましたが、これからズコ~ンと南下してフロリダへと向かいます。南へ進む前に、今回は大変お世話になった『移動宿泊所』(^^;)での出来事を皆さんにご紹介してみたいと思います。

バスは目的地へ行くまで、何度もあちらこちらのバス停に停まっては新たな人を乗せては降ろします。私は極力ホテル代をセーブするため、バスを移動手段兼、宿泊所として利用していたので、もちろん外の風景は真っ暗。バスの中も各席のところにある小さなライト以外は何もない、本当に暗~い中を進んで行く寝心地の悪い乗り物でした。

その『夜行バス』、たぶん昼の客層とはだいぶ違うんだろうな~と感じた例を二つほどご紹介しましょう。私にとっては夜行バスは「寝床」ですので、本当は静かにずーと朝まで走り続けていてくれるのが一番良いのですが、さすがにそういう訳にはいかず、やはり途中の街々で停まって、乗客の乗り降りがその度に起こりました。ですから、私にとって途中の街は全く興味がなく、バス停に停まって人の出入りのたびに、ただでさえ浅い睡眠が妨げられる「気分の悪いところ」でしかありませんでした。

そう言うわけで、どこで誰が乗ってこようが、降りようが意に介することではありませんでした。だから、『その人たち』が乗ってきたときも、どうでもいいことでした。その人たちとは、バックパッカーの二人組みです。


よれよれのジーンズにTシャツ。私も人のことを言えた義理ではないカッコをしたはいましたが、近寄ったらきっと「臭いぞ!」と思える風貌で、私と同じく大きな荷物を持ってバスの中に入ってきました。

マ~そんな光景はそれこそあちらこちらで見たのですが、その連中、バスの一番後部座席に行ったかと思うと、先に乗っていた見ず知らずのバックパッカーと意気投合したらしく、夜中にも関わらず他人の迷惑を顧みずに大声を上げて話したり笑い声を上げたりしていました。

しかし、しばらくすると突然静かになったのです。
そして、それと同時にバスの後方からある「臭い」がしてきたのです。それは、マリファナ。

アメリカで留学していると自分の意志に関わらずこのドラックは周囲に存在するので、一度別に詳しくご紹介したいとは思いますが、あのマリファナ独特の臭いがしてきたのです。

 

私は驚きました。
しかし周りの人たちは、関わらない方がいいと考えているようで知らぬ顔をして寝ていました。その臭いがしていたのは、ほんの数分でしたが、こんな場所で吸うなんて….。とアメリカの暗い反面を見たかのような気がしました。

*****************

それから、ある日はこんなことがありました。
おそらく高校生くらいだと思います、黒人の男の子が乗ってきたのです。手荷物は何もなく私の隣りに座ったかと思ったら、そそくさと周囲の状況を観察した後、背中を丸めて椅子に座り込みました。

私は、「こいつ、何遊んでるんだ?」とは思いましたが、特に危害を加えるわけでもないので、そのままにしておきました。大きなバス停では、運転手さんも一度休憩を取りますから、乗客のバスへの乗り込みはノーチェックです。乗客のチケットの確認は、運転手さんが戻ってきてから、各席を回って行います。私は、1ヶ月有功のパスを持っていたので、いつもポケットの奥底にしまってあるパス(なくしてはいけないので、本当に奥底に入れていました)をゴソゴソと出しながら、運転手さんにニッコリ笑ってチェックを受けていました。

そして、その黒人の男の子が乗ったバスでも、恒例のチケット確認を行いに運転手さんが前からやってきました。すると、どうでしょう。その彼、私に向かって人差し指を口の真中に立てて、「シ~!」と言ったかと思ったとたん、さっきよりももっと体を丸め、椅子の足元の部分に入ってしまうくらいに小さくなったのです。

もちろん、それでも背中は見えます。でも、夜中ですから、本当にバスの中も暗いので、そこにある(いる)のが、私の荷物なのか人なのか、ほとんど見分けがつかないのです。

その時点で、私は彼が「無賃乗車」を試みていることに気がつきましたが、心の中で「やれるもんなら、やってみな!」的な気持ちも手伝って、彼の存在をわざわざバスの運転手には伝えないことにしたのです。

前から順にチェックをして運転手は来ました。そしていつものように私もゴソゴソと「パス」取り出して見せ、やはりいつものようにニッコリしました。そして、そのバスの運転手は、私の横の席に目をやりました。….私は、心の中で何が起こるのかちょっとワクワクしていましたが、運転手は、何か丸いものがあることは認識したのですが、特にチェックすることもなく、そのまま後ろの席まで行って、全員の確認が済んだということで、運転し始めたのです。

つまり、黒人の男の子は無賃乗車に成功したのでした。

彼は目的の街に到着したときに、私に小声で”Thank you!”と言って立ち去って行きましたが、これもアメリカの暗い部分だとつくづく感じました。でも、もう一度あのバスでの宿泊を3週間近くしてみろ!と誰かに言われても絶対にしたくないですよね~、本当に疲れますからね。やっぱり、若さっていいですよね~。そんじゃ!(^^;)

                              [2000年2月24日発行]

第22話 旅行 - 野宿は日本の習慣?!?

お金のない旅行っていうのは、お金のある人の旅行に比べると、金額に反比例して多くの経験をすることができる。もちろん、お金がなければできないこともたくさんあるけど、お金を使うということは、誰かにお金を払うことだから、イコール誰かがお膳立てしてくれることを意味する。つまり、自分では出来ないということだ。

この世に産まれてきたからにゃ、いろんなことを体験しよう。

貧乏旅行の目的地は、アメリカの最南端「キーウエスト」だった。途中、一人の日本人留学生と合流して、フロリダへと一路バスで進んでいったが、バスの進む距離に比例して、北部の凍るような寒さから、南国の温かさ(暑さ)へと変わっていく様子を見るにつけ、「アメリカはデケ~な~」とつくづく感じさせられた。

ご存知のように、フロリダは、「バケーションランド」!
いくらお金がないからといっても、そこは童心に返って「ディズニーワールドには絶対に行くぞ!」と決めていた。入場料はなんとかなったとしても、リゾート地のホテル代まで出すほどお金がなかったし、夜行バスの中で寝るのもさすがに疲れが出ていたので、暖かければ野宿をしようと思っていた。

当時、ディズニーワールドの入り口には、広々とした草むらで荒涼としていた。私たちにとっては、その場所は最適な「寝床」に見えた。その場所に到着したのは、既に夕方4時過ぎ、陽が落ちるまではまだ時間があったので、私たち二人は荷物を抱えて草むらに入り、適当なところに荷物を置いた。

明日の朝まで過ごすのに少なくとも水がいるだろうと思い、手提げのビニール袋を持ってディズニーワールドの入り口に行き、袋いっぱいに水を入れた。少し袋に穴が開いていたのだろう、草むらへ帰る途中その水を「ボトボト」とこぼしながら進んだ。

周りの人達からすれば、こ汚い東洋人が大きなビニール袋に水を抱えて、それも半分くらいこぼしながら草むら方向に歩いていく様子はよっぽど滑稽に思えたのだろう。草むら入り口まであと10mほどになったころで、パトカーが来てしまった。

間一髪!
お巡りさんたちは、いつものように、いつものごとく銃に手を当てなが
ら、私たち二人に近づいてきた。

ここからは、職務質問。
警察  :その水はなんだ? (ニヤニヤしている)
私たち :飲み水。     (ニコニコして返す)
警察  :これからどこに行くんだ?
(ゆっくりした英語で話してくる)
私たち :あの草むらの中。 (何事か?といった顔で返す)
警察  :草むらで泊まってはいけない。
(ちょっと、マジな目で見つめる)
私たち :エッ?知らなかった。
(そんな常識があるのか?とばかりの顔)
『日本では、こういった遊園地に行くときには、草むら
で野宿する習慣があるんだ!』
(まるっきりの大ウソをつく(f^^;))
警察  :(ニヤニヤ)….。
私たち :駄目なのか?(往生際が悪い…)
警察  :どこに行くんだ、そこまで連れていってやる
(まだニヤニヤしている)
私たち :(あきらめて)草むらに荷物があるから、バス停まで…。
警察  :(また、ニヤニヤ)

仕方なく、荷物を草むらから持ってきて、パトカーに乗せてもらい、バス停にまで送ってもらったのだが、終始ニヤニヤ顔の警察官は、この手の「ノジュラ~」(野宿をしようとする人…私の造語)をよく知っているらしく、10分ほどの間、私たちのへたくそな英会話に付き合ってくれた。

そんなに怒っている様子でもなかったので、バス停に到着したとき、私はすかさず「一緒に写真をとってももいいか?」と一(いち)観光客として、警察のお兄さんに写真を申し込んだら、何とOK!。(f^^;)

パトカーを後ろにして、2ショット写真を撮ってしまった。

….しかし、寝るところを失った私たちは、再び夜行バスのブーメラン旅行に旅立ったのでありました。


付録
< 『さあ、行こう留学だ!』専用特殊辞書! >

ブーメラン旅行:
ブーメラン旅行とは、A駅からB駅に出発するバスに乗込み、再びB駅からA駅に戻ってくることをいう。行って帰ってくるが、目的地は出発点のA駅。A駅の地域で一日過ごしたいが、すでに夕方もしくは夜間になってしまい、A駅近くで宿を探すお金がないときにする行為。

バス停で寝ると警備員に捕まるが、夜行バスの中なら捕まらない。そのため、移動するバスを寝床にする。しかし、目的地は出発点であることから、夜中に到着するB駅を選び、折り返して帰るバスに乗り換える必要がる。

バスの中であまりよく眠れない上、夜中に乗り降りをしなければならない、どうしようもない旅行。但し、基本的に寝ている間の安全は確保される。終わり

(f^^;)ア~、肩凝った!(^^;)

                              [2000年3月2日発行]

第23話 旅行 - 野宿でもう一丁!

前回は、ディズニーワールドでの野宿の失敗例を紹介しましたが、今回はさらに、もう一丁。野宿って、体に悪い!って例をご紹介しましょう。(f^^;)

ディズニーランドでの野宿に失敗した私たちは、それに懲りずにその年の最後の日をアメリカ最南端、キーウエストの堤防ですごすことにした。つまり、また野宿である。前回失敗した雪辱を克服すべく準備をした。

キーウエストはとてもきれいな場所だ。特に記憶に鮮明に残っているのは、よくコマーシャルでも使われるフロリダ半島からキーウエストへ伸びている「海の上を走るハイウエー」だ。普段はバスを夜使用していたが、さすがにこの風景を夜見ても面白くないので昼間に乗り込み、真っ青な空と海、そして白い雲、その中を突っ走るバスの「一番前」に陣取り、子どものようにはしゃいでしまった。

冬の荷物を背負って、キーウエストの島を歩くのはとても苦痛だったけど、途中黒人の人たちが私たちに向って”You made it! You made it!”と励ましてくれたりして、ちょっとした冒険家気分だったりした。(^^;)

日中あちらこちらを歩き回り、金持ちの観光客を斜めで見ながら、夜を待った。さ~野宿の準備だ!

12月31日。夜9時ごろ…
前回の教訓から、「浜辺で野宿していては、また警察に連行されるかもしれない」。と思い、『それなら釣り人たちのキャンピングカーの停まっている堤防で、車と車の間に毛布を広げて寝れば、多分警察も気がつかないだろう!』と、「浅知恵」を絞り、大晦日の夜を過ごすことにした。

なんとすばらしいアイディア!と思ったものの、これは自殺行為だった。
経験者は忠告する。野宿は絶対に堤防でしてはならない。

ありゃ、めちゃくちゃ寒い!

赤道の近くの常夏状態の場所でも、波しぶきが掛かり、はじめのうちは気がつかなかったが、時間が過ぎるにつれ、段々毛布が海水で湿ってくる。そして、2~3時間の内にびしょびしょ。眠れたもんじゃない。朝を迎えるころには、顔面蒼白!ブルブルしながら太陽が昇るのを待つことになってしまった。

あまりの無残な様子(半分、濡れねずみ状態!(^^;))に、朝になったら、隣のキャンピングカーの叔父さんが、「野宿するなら草むらの方がいいよ」と、優しく(?)忠告してくれた。

いずれにせよ最大の目的の一つ、新年をアメリカ最南端のキーウエストで迎えることはできた。水平線のかなたから登ってくる「初日の出」、ひどく感激した。旅の間重いながらも持ち歩いていた母親から送ってもらっていたレトルトの「赤飯」、封を開け暖めずにそのままほうばって、新年を迎えたのであった。

親の愛とはありがたいものである。英語もまともに書けない親が、子どものためにと「日本の正月を味合わせてやろう」と壊れないように丁寧に布でくるんで、小包にして送ってくれたのだ。本当に、感謝、感謝だ。

初日の出を見ながら、親の健康や、自分の留学の成功を祈願した。
感激の一瞬!

しかし、その隣で日本人観光客のね~ちゃんたちが、「キャアキャア」いいながら記念写真を撮っていたのは、ちょっと腹が立ったが….。最近世界中どこにでも、日本人っているからね。

結論:屋根と、暖かい布団のある生活って、本当にシ・ア・ワ・セ!

それじゃ!(^^;)

                              [2000年3月9日発行]

第24話 旅行 - 最後まで大変!

新年のスタートをアメリカの最南端の最南端、キーウエストの防波堤で迎えることができた私たちは、1月3日から始まる学校に間に合うために元旦中に現地を立つ必要があった。

約一ヶ月に及ぶ貧乏旅行もこれでお終いかと思うと感慨深いものがあったが、無事に寮に戻れることで、ホッとしていた。そして、何よりも戻ったら食事の心配がいらないということが嬉しかったりした。旅行の間はやはりお金と相談しながら、なるべくカロリー&栄養価の高い安いものを食べていた。


でも学校の寮に戻ればそんな心配はいらない。何をどれだけ食べてもお金は同じ。これほど生きていく上で「食」が確保できていることが意味のあることだとは、それまで分からなかった。そう思うと、若いうちに貧乏旅行をすることって本当に価値のあることだと思うね。食のある安心感、帰れることが嬉しかった。

さて、北から南までの旅行をすると、南ではどうしても冬用の荷物が邪魔になる。そこでキーウエストに到着した私たちは、少しでも荷物を少なくするために、バス停のロッカーに荷物を入れていた。それでも、やはりかなりの量の荷物を背中に背負っていたし、防寒用のブーツを履きながら「真夏」の地域を歩いたりと結構大変だった。

考えてみると、北では冷え性のため常に足先は冷え冷えしていたし、南では防寒用のブーツが暑くて紐をできるだけ解いてブカブカさせながら蒸れた靴を我慢しながら歩いていたりした。何とも、足元の苦労は大変なものだった。

また靴下や下着はそんなに枚数を持ち歩いていなかったから、バス停での待ち時間に普通の石鹸を使って手洗いをし、移動中のバスの椅子にひっかけて乾かすのだが、たった数時間の移動中に洗濯物が完全に乾くことがなく、いっつも半乾き状態を我慢して着替えた。

多分皆さんも一度は経験があるとは思いますが、半乾きの洗濯物って、どことなくジト~としてきもちが悪いのですよね。

さてさて、初日の出を見てから荷物を片づけて、昨日の寝不足でボ~としながら防波堤を後にし、ブーツをガポガポさせてバス停に向って歩いた。お昼前にはバス停に到着したが、ドアが閉まっていた。私たちは、何の疑いもなく、元旦だから開くのが遅いのだろうくらいにしか考えず、ドアの閉まっているバス停の待合室の前に、疲れに耐えかねて座り込んでうたた寝を始めた。

1時間ほどうたた寝した後、あることに気がついた。それは小さな張り紙だった。
それには、手書きの文字で「1月1日はバスはスケジュール通り来ますが、バス停(待合室)は閉まります。」と書いてあった。

 

?!?今日はバス停の待ち合い所は閉まっているって?
そのときに、初めて事実を知った私たちは、待合室のロッカーに置いてある荷物がなければ帰れないため、まずは必死になって建物の周りをうろうろして、どこかから侵入できないかすべてのドアや窓を確認した。しかし、残念ながらどこも開いていない。待合室の戸はガラスで出来ていたので、目の前にロッカーが見えているのに荷物が取れない歯がゆさに、イライラしてしまった。

しかし、最悪の事態だった。
だってバスのチケットはその待合室のロッカーの中だし、今日のバスに乗れないと学校の始業式には間に合わないし、ましてさっきまで「帰ったら飯が食える!」とぬか喜びした分、また寝るところと飯のことを考えるなんて、考えられなかった。二人とも、場合によってはここで「もう一泊」することを半分観念して、もうどうにでもなれ!とばかりに、笑いが飛び出したりした。

すると、やっぱり神様はいるものだよね。
前方から一台の車がやってきたんだ。その車の運転手は、待合室の前でごろ寝をしている私たちに声を掛けてきたのだ。マ~こちらには正当な理由があるのだから「荷物が中にあって、このままでは今日のバスに乗れないんだ!」と説明したところ、なんとその叔父さんここのバス会社で働いている人らしく、「分かった」と言って、家に戻って待合室の鍵を持ってきてくれたのだ。

嬉しかったね~、その時は。

荷物をロッカーから取り出した私たちは、再び閉まる待合室のドアに「サヨナラ」と思いを込めて、旅の終わりを感じた。マ~、後はバスに乗って帰るばかり。帰ったら、あの「まずい」と思っていた寮の飯がご馳走に思えて、ルンルン気分でまた十数時間の道のりを進んで行った。

本当に無事で帰れてよかった!

 

(旅の思い出のエピソード、まだちょっとあるので、これから何回か書きますね。お楽しみに!)(^^;)

                              [2000年3月16日発行]

第25話 旅行 – 飯!

今回は旅に途中からジョインした友達との思い出をチョット書こうと思う。

彼は、アメリカに留学したときに知り合った友達だ。大阪の出身で、松田聖子のポスターを寮の部屋に貼っていたのを覚えている。彼の実家は何かのお店(たしかレストランだったかな)をしているとのことで、特に留学の費用で苦労しない家庭で育っている様子だった。

一度、私は普通のサラリーマンで留学するのは大変だと話したところ、商売をしているとそんな苦労はないと話してくれた。そこで、私は商売に関して質問をした。すると、彼はタバコの自動販売機の話しをしてくれた。繁華街で立地条件がよければ、タバコの自動販売機一台で一日数十万円の売上げがある。一ヶ月で100万円以上の利益を上げるなんてそんなに難しいことではない…。とのことだ。

なるほど、たかがタバコの自動販売機一台で彼の留学の費用を賄うのに余りある収入があるのだから、商売人ってすごいんだな~とつくづく感じた。そのときには、日本に帰ったら自動販売機をどこかに設置して「儲けたる!」と思ったものだが、未だに実現しない。(^^;)

さて、彼と合おうと決めたのはニューヨーク滞在中、手紙を書いたのだ。留学してから約半年ぶりに合うので楽しみだった。彼はサウスキャロライナの大学に通っていたので、南下する途中に彼の学校に寄ることにした。バス停で再開したときには嬉しかった。たった半年しか経っていなかったが、気持ちが許せる友達と合うのは海外では特に嬉しいものだ。その日は彼の寮に一泊させてもらい「旅は道連れ」とばかりに、彼を旅行に誘った。

彼に、私の珍道中での出来事を話し、貧乏な旅の面白さを語った。


すると、彼も2週間程度の休み(彼の学校はセメスター制だったので、冬休みが2週間ちょっとしかない。ちなみに、私の通った大学はクオーター制で約一ヶ月の休みがあった。)にも関わらず、私と一緒にアメリカの最南端を目指すことになったのだ。

彼は「野宿が中心」だと思い、荷物の中には「なべ」を入れてきた。大きさは直径15cm、電気のコンセントが付いていてそのままでお湯が沸かしてラーメンを作ることも出来る優れものだった。そして、彼はそのなべと一緒にお米、レトルトのカレー、そして海苔を持って来てくれた。

私は、電気が使える場所でなければ使えない「なべ」なんて使い物にないだろうとは思ったが、意外や意外、2度ほど恩恵に預かった。さて、どこで電気を盗んだかというと、バス停の待合所。


バスの待合所にもいろいろあって、初めてその「なべ」使った場所は意外に簡単にコンセントが見つかり、それを使ってお湯を沸かし、一食お金を使わずに食事に預かることができた。公園で食べたときの「ときめき」はなかたね。写真を一枚撮ったが、アホ面丸出し状態。

しかし、問題は二度目。
一度目で味をしめた私たちは、今回もとばかりにあれはマイアミのバス停で今度は「お米」を炊くことにしたのだ。しかし、さすがにマイアミのバス停はとても近代的で大きく、まだ建物が完成してから間もない様子で、どこもかしこもピカピカだった。コンセントも目だったところになく、探してみると建物内の通路の壁の下の方にに清掃用に準備されているのしか見つからなかった。

半分諦めかけた私たちだったが、それでも空腹には耐えかねず、人ごみの多い通路の脇に陣取り、なべを荷物で囲みながらお米を炊くことにした。しかし、お米を炊くためにはもちろんお米を磨ぐ必要がある。お手洗いで米を磨ごうとしたが監視の目が厳しく、お米を磨ぐことができなかった。そこで、「死ぬことはあるまい」と観念をして、お米を磨がずにそのままで炊くことした。

先程書いたようにコンセントがあるのは人通りの激しいバス停の通路、そこに荷物で円陣を組んで米を炊き始めた私たちはすぐにある問題に直面した。


それは、臭い。

お米を磨がなかったのがその「悪臭」の理由だったのだろうが、とにかく蒸気と共に「臭い」が立ち込め始めたのだ。近代的なマイアミのバス停の中でだ。私たちの前を通り過ぎる人たちは、私たちが何をしているのか、きっとなんとなく理解していたと思う。しかし、特に叱りもせず、ニヤニヤして通り過ぎて行った。(運よくそのときには警備員は私たちの目の前を歩いていかなかった。)

お米が炊き上がるのまでの時間は十数分、そんなに長い時間ではないのだが、白い蒸気と臭いでおちおちしていられなかった。なんせ、インデアンの狼煙(のろし)でもないのに、荷物の真ん中から蒸気が上がっているのだから….。さて、ヒヤヒヤの時間が過ぎ、やっとご飯が炊き上がった。


ご飯さえ炊きあがったらこっちのもの、準備していた海苔を一枚切らずに広げそこにご飯を乗せて、ハンバーガー屋から持ってきた塩をふりかけて頬張った。腹が減っていたので、これが美味しかった….はずだった。


しかし、それはめちゃくちゃまずかったのだ。ぬか臭いのだ!

多分だれも食べたことがないだろうからどんな味だか説明すると、舌触りはぽそぽそ、さらに「糠」の臭いがするのだ。食べれたもんじゃない。

でも、折角炊いたご飯、捨てるのはもったいないので、二つおにぎりを作りとにかく一つは二人で食べたが、さすがにもう一つは非常食という位置づけで2日くらい持ち歩いて捨てたのを覚えている。忠告しておこう、お米はきちんと磨いてから炊くこと。(^^;)

                                                                                                          [2000年3月23日発行]

第26話 旅行 – 番外編-人種差別

あれだけ多民族の人達が住んでいるアメリカでも、今だにしてアメリカには歴然と人種差別が存在する。

最近でも、ある判決でクリントン大統領が「背景には人種差別が存在する」なんて発言をしていたくらいだから、実際の一般社会でどれだけ多くの問題が隠れていることか、…アメリカの病巣の一つとして把握しておく必要がある。

ただ、だからと言って日本人留学生があからさまに「差別」されることはほとんどないだろう。なぜなら、背景にある文化、高い教育レベル、そして経済力があるからだ。経済的に低迷している日本ではあるが、やはり「屋台骨」はまだまだしっかりしているということだろう。先人達に感謝しよう。

人種差別を客観的に見ると、背景には「教育レベルの低さ」が問題として存在する。それはどういうことかと言うと、十分な教育さえ得ていれば、人種差別があるとは言っても基本的には平等な機会が与えられているため、社会人として成功することができるからだ。ちなみに、アメリカの上流階級はやはりどうしても白人が占めているが、黒人や東洋人が
いないわけではないことからもそれはわかる。

ところで、私が言っている教育とはけして高度な教育ではない。一般的な読み書き、計算能力、交渉力、忍耐強さ、マナー等のことだ。私が肌で感じた差別は、「肌の色」ではなく単にそう言った教育の低さに基づくものだったと思う。当たり前のことを当たり前に出来ない人種へのアメリカ人の冷たい視線ってすごいものがある。

さて、なぜ今回は人種の話をまたしているかと言うと、旅行の途中、ワシントンでの出来事が忘れられないからだ。あれは、FBIを見学に行ったときだ。


日本で警視庁や自衛隊のビルの見学コースがあるのかどうか私は知らないが、あの有名なFBIの本部ビルには見学コースがあるのだ。ワシントンに訪れる人は一度見学に行くといいだろう。ビルの中に入るときに荷物のチェックをされるが、一般観光客用にルートが設定されていて、FBIの人がガイド役になって、FBIに関する話を過去アメリカで起こった犯罪史の展示を見せながら教えてくれる。あのアンタッチャブルのアルカポネの写真なんかもあったと記憶している。

旅の途中で会った人に勧められてこのFBIのビルへの見学に行ったのだが、その人は防音設備の中で銃を撃たせ貰ったと話していた。私もワクワクして行ったのだが、防弾ガラスで囲まれた施設の中で誰かが銃を撃つ練習をしていただけで残念ながら私のツアーではその機会は準備されなかった。(ちなみに、私は残念ながら今まで一度も銃を発射したことがない。)

さて、私が驚いたのは実はそのFBIでのツアーそのものに対してではなく、ある参加者に関してだ。それは、とっても「美人の黒人女性」と、なんとも「みすぼらしい白人男性」とのカップルがベタベタしてそのツアーに参加していたからだ。

とても不思議な光景だった。
それは、彼ら二人のことだけではなく、なんとそのツアーに参加していた全ての人(白人の人も黒人の人も)が彼ら二人を驚嘆の目で見つめていたからだ。ツアー開始を待っているときなど、全員が彼らをちょろちょろと見ていた。

みんなそれぞれに思うことがあったのだと思うが、たぶん一番大きいことは、黒人女性と白人男性が恋人の関係にあることに対してだと思う。アメリカでも未だにして白人と黒人のカップルは非常に少ない。やはり、超え難い何かが存在するのだろう。

 

私は、そのとき一種の違和感を感じていた自分に驚いてしまった。
人種差別はしてはいけないと思っていても、自分の中にそうやって違和感を持って人のことを見つめる自分いる、それが情けなくもあった。これから何百年必要か分からないが、人類が単に「肌の色」だけで人を差別することがなくなることを切に望みたい。

ちなみに、私の友人(女性)でナイロビの男性と結婚して幸せな生活をおくっている人がいる。彼女にはかわいい息子がいるのだが、私は一切そういった感情(違和感)を抱かない。他の子供と同じで、物事の良し悪しを教えたいと思うし、しっかりした大人に成長して欲しいと思う。そして何より幸せな人生を送ることを望んでいる。

旅行をしていた当時に比べて成長したのか、単に友人の子供だからそう感じるのか私自身はっきりしないが、少なくともこういう積み重ねが人を成長させるのではないかと思っている。ワシントンで出会ったあのカップルがその後どうなったかは知る由もないが、もしも結婚していたら幸せになっていて欲しいと思う。(^^;)

                              [2000年3月30日発行]

第27話 試験はキライ!

しばらく貧乏旅行の話を書いてきましたが、そろそろ学校での話に戻ります。まずは、大嫌いな試験にまつわるお話から!(^^;)

世界中、どこの生徒も、学校は好きだけどテストは嫌いなものだ。私もその一人。

先生の話しを聞くのは好きだし、不思議な現象の原因探求や、知らないことを知る楽しさはこの上ない。しかし、試験はどうも好かん。自分では理解していたつもりでも、どうも「得点」という成果に結びつかない。

なぜなんだろう?
やっぱり、私はアホなんだろうか?….と、小学生の頃から未だにその理由は分からない。(f^^;)

思い起こせば、小学校の一年生か二年生のとき、あるテストがあった。
それは、

「おかあさんは、お買い物にいつ行くのでしょう?」
1.朝   2.昼  3.夕方

というものだ。

 

私は、母親の行動を思い浮かべ、答えを2番の昼とした。ところが、それでバツをもらった。とてもショックだった。先生に、「どうして間違っているのか?」って質問したところ、「だって夕方に買い物に行くでしょ?」と言われてしまい、私は「うちはちがう!」と必死に抗議したが、やっぱりバツのままだった…。

画一的なパターンを要求する日本の教育では、絶対に回答は一つであって、二つ以上の回答はあってはならないのかもしれない。でも、それぞれの家庭の事情によりけりだと思うのである。

たとえば、市場に勤めているおかあさんは、買い物を朝の仕事帰りにするかもしれないし、早めに夕食を取る家庭だと、2時とか3時の昼間に買い物に出ることだってあるだろう。それを、回答は夕方の一つだけって言うこと事態、大本営発表、一億玉砕なんてことに導いてしまう気がする。(ちょっと大げさか(^^;))

それに、夕方とは何時から何時の時間かはわからないけど、もしもすべての家のおかあさんがある特定の時間帯にだけ買い物に出かけたとすると、お店はきっとパニくるだろう。(^^;)

みなさんは、どう思います?

ちょっと話しがあらぬ方向に進んでしまったが、基本的に大多数の人達は、試験が嫌いなことには変わりはないだろう。もちろん、これはアメリカの学生にとっても同じで、なんとか試験の期日を先延ばしにしたい、できれば学校が火事にでもなって試験が中止となればいいと、どれだけ多くの学生が試験前夜、神様にお願いしていることか….。(^^;)

 

当たり前だが、普通はそんなお願いを神様は聞いてくれない。
そして、普通はイヤだイヤだと言いつつも、一生懸命試験を受けるのだが、ときどきそれ以上の「実力行使」に出る輩(やから)がいるんだよね、アメリカには….。

それは何か!

な、なんと「爆弾」だ!

もちろん、爆弾を作って学校を爆破するなんてことをするのではなく、「爆弾を設置した!」と連絡するでけの話しなのだが、拳銃が合法化されているアメリカでは爆弾でさえも「身近に」感じられるから恐い。

なんとも人騒がせな話しだ。

あれはある冬の試験当日、先生が試験用紙を配布してすぐだった。生徒は全員「さて始めるぞ!」と集中しはじめた瞬間、教室のドアを開けて黒人の警備員が入ってきた。そして、先生の耳元に何かを伝えたと思ったら、「全員、すみやかに校舎から出るように。学校に爆発物を仕掛けたという情報が入りました。」と、面白くなさそうな顔で先生はアナウンスした。

 

きっとデマに違いないとは思ったが、万一ということもあるので、とにかく全員が校舎から出てチェックが完了するまでの約10分間、寒い中待っていた。一通り爆弾が仕掛けられそうな場所を警備員のおじさんたちが点検をし、「異常無し」と放送が入ってからまた試験開始となったのだが、人騒がせったらありゃしない。結局試験は続行されるのだから、そんな中途半端なことはやめりゃいいのに、浅はかな連中がいるものだよね。

最近日本でも、物騒な話しが多いけど、さすがに爆弾を学校に仕掛けたという電話までする「愚か者」はまだいないみたいだ。アメリカは、銃社会だけあってどうしてもそういった爆発物への不安感がある分、そういう脅迫電話って不気味だよね。

幸い、私はこの手の爆弾騒ぎを一度しか経験したことがなが、なんともちょっと物騒な国ではあるよね。ただ、警備のおじさんたちも、もっとまじめにチェックをしてほしかった。だって、もしかしたら本当に爆弾が仕掛けれられいるかもしれないのだからね。
 

様子を見ていると、おじさんたちは警棒で適当にごみ箱や、天井を突っつくだけで検査終了だからね。こんなもんでいいんかいな?と思ってしまった。マ~、こんなアホらしい電話に嫌気がさしているのかもしれないけど….。良い子の諸君!絶対にこんな「爆弾を仕掛けた」なんて電話を学校に掛けないように!(^^)

                                                                                                             [2000年4月6日発行]

第28話 たばこ

今回は、タバコに関するエピソードを紹介しよう。

アメリカ発の「禁煙運動」は世界に広がっている。


日本でも、数年前からオフィースでタバコが吸えなくなったりしているため環境が改善されてきて嬉しい限りだ。なんせ、喫煙が許可されていたころは、年末の大掃除の雑巾は見られたものじゃなかった。書庫ロッカー、壁だけでなく、スチール机の横等、奥の方まで『ヤニ色!』。これじゃ体に良いわけはない。

とは言っても、実は私もタバコを吸う。(f^^;) [2010年頃には辞めました!]


マ~、元々禁断症状がでるまでの依存症ではないので1週間に一箱もあれば十分なのだが、学生時代は勉強に疲れて図書館から出てキャンパスを眺めながら一服するのがとても良いストレス発散になっていた。

ある日、授業が始まるのを待っていたときだ、廊下でたくさんの生徒が教室が開くのを待っていた。廊下の端には喫煙所があり、タバコを吸う生徒たちが灰皿を中心にして輪を作っていた。私も時間を持て余していたので一服していたが、そろそろクラスが始まると思い、その場を立ち去ろうとしていた。

すると、そばにいたアラブ系の留学生がツカツカと近寄ってきて私に向かって『火ありますか?』と聞いてきた。私は、タバコを吸うのに火がないんだな?と思い、すかさず「あるよ。」と答えてカバンの中からライターを出そうとしたところ、そのアラブ系の留学生、私がタバコを吸うことを確認したらしく、『それなら、タバコ下さい。』と言ってきたのだ。

タバコを吸う人なら分かると思うが、タバコの一本や二本上げるなんて気にならないものだ。自分も手持ちにないときには、貰ったりしているのだから、『タバコ貰えますか?』と言われれば、誰だってそんなに気にせずに上げるのだが、そのアラブ系の学生に対してはちょっと腹が立った。

何故なら、『火があるなら、タバコも持っているだろう。』という二段論法で、私が持っていないと言い訳ができないように話を持ってきたからだ。マ~、そのときにはそのまま一本渡してやったが、腹が立った。これが『アラブの商人』のやり方なのかどうか知らないが、彼は目的を果たし、私は気分の悪い思いをしたのだ。これは、タバコのとても忘れられない思い出として鮮明に記憶に残っている。

ちなみに、その学生の姿はしばらくしてキャンパスから消えていたので、中退したのか、逃亡したのか、….。英語がほとんど話せなかった様子だったので、きっと退学になったのかもしれない….。ザマ~見ろ!(^^)v

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それから、タバコに関して鮮明に覚えていることがある。

あれは寮に住んでいた頃のこと、当時ラッセルという元気でニコニコ笑う学生がいた。彼は、ほとんど英語を話せない日本人留学生の私なんかにも分け隔てなく挨拶をしてくれたりして、とても良い学生だった。

その彼が、寮の中を裸足でドタドタ走りながら大笑いをして寮のみんなに呼びかけていた。「やった、やった!(All right! All right!)」と、誰かに話をしたかったらしく、飛び跳ねていたのだ。

たまたま部屋にいた私は、「どうしたの?」と廊下を飛び跳ねている彼に向かって尋ねたところ、あまりにも嬉しかったらしく息を切らせながら早口で捲くし立てながら、「俺の部屋にきてみな!」と呼んでくれた。

彼の部屋は私と同じフロアーの角にあり、大学のグランドが見渡せる見晴らしの良い部屋だった。ちなみに、彼のルームメートはラッセルとは正反対の性格で、ちょっと陰気そうな雰囲気の男だった。ちょっと痩せこけて、黒系の服を好み、背中を丸める癖のある『噛みタバコ』を好んでいた奴だった。そして、「ペッ、ペッ」とよく唾を吐いていた。

 

ちなみに、ここでちょっと説明を加えよう。よくアメリカの野球選手がチュウインガムを噛んでいるようにして、唾を頻繁に吐いているのを見たことはないだろうか?あれが、その『噛みタバコ』だ。

ニベアの缶程度の入れ物に入っているのだが、蓋を開けると中には湿ったタバコの葉が入っている。それを、指で一掴みして唇と歯の間に詰め込み、噛むようにしてタバコのエキスを楽しむ(?)のだ。もちろん、煙にして肺に入れてもニコチンやタールが溜まって体に悪いのだから、当然口の中に入れたタバコと唾の混合物(f^^;)は体に良いわけがない、そのため、口から吐き出しているというわけだ。

 

さて、話を元に戻そう。
私を部屋の入り口に連れてきた彼は、ルームメートが授業に言っていることをまず私に伝え、順を追って説明してくれた。ラッセルはルームメートの『噛みタバコ』が嫌いだった。理由は、外で噛む分には唾を吐いていても気に掛からないが、部屋の中でまさか床に唾を吐くわけにはいかないので、彼は「痰壷」ならぬ、『噛みタバココップ』を準備して、その中に唾を吐いていたことから始まる。なぜなら、頻繁にそのコップを洗っていればそんなに気に掛からないのだが、彼はそのコップが唾で一杯になるまで捨てないのだそうだ…。ゲゲゲ…(*_*)

コップの大きさは、マクドナルドのMサイズほどの大きさ…。(@_@)
そりゃ、ラッセルにとっちゃ気分が悪かったろう。

ましてや、そのコップはルームメートの机の横にあるの窓際に置いていたそうだ。つまり、窓を開けて換気をすると、「モロに」その匂いを部屋中に拡散させてしまうわけだ。まったくもって最悪!

ラッセルも人がいいのだろう、今まで我慢してたらしのだが、今回はその鬱憤(うっぷん)を一挙に解消した。

それは、(彼は笑いをこらえながら一生懸命話をしてくれていた)、何と部屋のブラインドが風の勢いで大きく揺れてしまい、その『噛みタバココップ』を倒して、何とルームメートのベットの上に一面ぶちまけたからだ(+_+)

あんまり想像はしたくないが、よっぽど「グロテスク」&「悪臭」だったことだろう。

たしかに、見るとそのベットの上にはブランケットもシーツもなかった。ルームメートは、授業が始まる前に全てはずしてロッカーに持っていったというのだ。

その様子があまりにも滑稽だったらしく、ラッセルは寮のみんなにその話がしたかったらしいのだ。あれからしばらくして、ラッセルは大学を卒業して不況の最中のアメリカで
はめずらしく「ゼロックス」に就職が決まったと話をしてくれた。しかし、あのときのラッセルのうれしそうな顔は今でも忘れられない。(^^;)

                              [2000年4月13日発行]

第29話 先生に教える生徒?

4月に入り本屋さんに行くと、入り口のところに山積みにされたNHKのテキストが目に付く。毎年恒例で、多くの人が英語やその他の外国語を勉強しようと意気込んでテキストを購入するからだ。

NHKのテキストは安い。私のお気に入りの「やさしいビジネス英語」のテキストは370円(2000年時点)。喫茶店に入ったらすぐになくなってしまう金額なのにも関わらず、中身は素晴らしくとてもためになる。後はラジオさえあれば、英語の勉強には事欠かない。実際に一生懸命勉強しようとすれば、これだけの量をこなすのは至難の技だ。

だから、気楽に継続していくことをよく人には勧めているのだが、世の中の大半の人達は残念ながら挫折の道を歩むらしい。だって、もしも全員がテキストを一年間購入して勉強するとしたら、本屋さんの入り口には一年中テキストが山積みされていていいはずだ。

しかし、毎月毎月テキストの山は低くなり、いつの間にやら片隅にあるテキストコーナーなるところに細々と「野積み」されてしまうのが、年中行事だ。(f^^;)

以前にも何度かご紹介しているが、NHKのラジオ講座はお勧めだ。留学を目指す人なら、絶対に「やさしいビジネス英語」を勧める。レベル的にいうと一番高いぐるいに入るが、あのかったるい基礎英語を聞いているときに襲ってくる「睡魔」と比較すれば、こっちの方がはるかに継続しやすいし、実践としてためになる。(f^^;)

私は、ここ何年間も講師の杉田敏さんにはお世話になりっぱなしだ。
『今年もお願いします』と、4月のテキストを片手に「隙間の数十分」を英語の勉強に使っている。もうそろそろゴールデンウイークに突入となるが、勉強する気持ちになった瞬間が「旬」だ。370円の投資で大きなりターンを期待して一緒に勉強しよう!

しかし、「勉強することイコール苦痛」と長年教え込んでしまった日本の文部省教育には困ったものがある。その最大の原因は、受験勉強対策化した学校と、生徒の主体性をなくした「受動的教育環境」だ。(最近は、受験勉強対策さえできずに、その機能を塾や予備校に取られているくらいだから、お寒い限りだ。)

日本の学校は、小学校から大学まで、すべて先生が一方的に話して、生徒は「話を聞いて、ノートを取る係り」みたいな場所で、とにかく静かにノートを一生懸命とった連中が優等生だった。しかし、アメリカの教育環境は雰囲気がまったく違う。そこには、先生と
生徒の活発なコミュニケーションが存在する。

単に、「教える」という世界ではなく、「共に勉強する」世界だ。
だから、生徒は平気でとっても気楽に先生に質問を投げかける。もちろん、先生は知識豊富だからほとんどの答えは返せるが、時として知らないことにぶつかったりする。

でも、そこでの先生の対応が日本とかなり違う。
そんなとき、先生は知らなかったことに対して全く恥ずかしい素振りを見せない。それどころか、生徒に向かい「この質問の解答を知っている人はいますか?」と尋ね、知っている生徒がいればそれをその場で説明させ、先生もメモを取ったりする。そして、もしも誰も知らなかったら、「次回までに調べてきましょう」となるのだ。

厳格で、おっかない先生像なんて、アメリカにはたぶんほとんどないのだと思う。だから、先生もけして日本のように「先生面」していない。とてもフレンドリーだ。

先生から『教えてもらう』ではなく、先生から『教わろう』といった能動的な態度が感じられる。だから、どんなに難しいことを勉強していても、勉強が楽しいのだ。もちろん、単位を取るのが難しいからだが、自分から進んで勉強しようとしている能動的な態度は、前向きな姿勢を産み、図書館だって、いつでもいっぱいだし、大きな大学だと24時間図書館が開いているところだってたくさんある。

知りたいと思う気持ちが、自然にそういう態度に変わってくるものなんだと思う。日本の受験勉強みたいな「詰め込み」は人間を卑屈にしやすいけど、知りたいという「知識欲」があれば、勉強したくなるものなんだろう。

さて、これから100円玉を4枚持って本屋さんに行くあなたは、どんな気持ちでNHKのテキストを手に入れるのか?勉強の楽しさに、興奮とときめきがあったら、きっとあなたの英語は上達間違いなしでしょう。さあ、ご一緒に!(^^)v

                              [2000年4月20日発行]

第30話 坂道の氷

私の留学生活のほとんどは、アメリカ南部の「ジョージア州」で過ごした。
もちろん、南部と言うくらいだから夏は「とてつもなく暑かった」のを覚えている。

初めの一、二年を過ごした大学には2種類寮があった、その違いは、エアコン付きと、エアコンなし。(^^;)もちろん、寮費もエアコンなしの方が安いのだが、高いお金を払ってもあの暑さを考えたら「エアコン付き」を選びたいと考えるのは皆同じ。しかし、キャパシティーの関係からエアコン付き寮に入れるのは3年生以上。よって、私の滞在中はその「権利」はもらえずに『エアコンなし』の寮に住んでいた。

 

しかし、夏の暑さはまったくもってひどいもので、寝苦しい毎日。
ロスのように乾燥した気候なら、夜になればそれなりに涼しく過ごせるのだが、それは元々砂漠状態の地域だから言えることで、自然豊かなジョージアでは、当然「湿気」があり、そのジメジメ感が私たちを苦しめた。

ベットのマットレス。これが熱を含むと、本当に寝苦しい。
ましてや、窓の向こうに見える「エアコン付き寮」の『室外機』の音がさらに寝苦しさを増した。なんせ、セントラルエアコンだったこともあり、その音の大きいこと、定期的に起こるキューともガーとも聞こえる爆音(?)が耳についてしまうほどだった。

そうすると、当然いつも寝不足状態。
エアコンの効いている教室や食堂、図書館に設置してあるエアコン噴出口の前に立ち、冷気を直接体で浴びるときの快感!腰から力が抜けるほど気持ち良かった。

当時、私は勉強もあまりせず、貧乏人にも関わらず『遊学生』状態だったので図書館にもまともに通わなかったのだが、夏場だけは別の目的で何度か足を運んだ。

マ~、想像がつくと思うが、単に「夕涼み」(f^^;)


知り合いの女の子を見つけて、チャチャを入れるのが楽しみだった。

しかし、この「夕涼み」は私だけがしていたわけではなかったようだ。ある日の午後、暑さのあまりクラクラしていた私は、いつもの様に図書館の地下にある自習室へ足を向けた。すると、一定の周期である音が聞こえているではないですか!

 

そう、それは「イビキ!」。
その部屋を外から覗いてみると、なんと大胆にも大きなテーブルの上に横たわって学生が寝ていたのだ。図書館の管理者に見つかったら叱られるだろうに、何とも大胆不敵の行動だ。あの気持ちよさそうな顔、よっぽど夜眠れないのだろうな~と、人のことながら同情してしまった。もちろん、彼は私と同じ寮の学生だったことは言うまでもない。

しかし、夏が暑いからといって冬が過ごしやすいということもないのがさらに問題だ。シンガポールの様に『常夏』ならば、服装もTシャツさえ持っていれば生きていけるのだが、冬はそれなりに寒いのだ。

なんせ、当時年に2、3回は大寒波がやってきて、町中のすべてのものを『凍り漬』にしてしまう。マイナス10度以下だってあるのだから、東京の冬なんてもんじゃない。駐車している車は、言葉通りの「カチンコチン」、背の高い木々からは氷柱が1m以上の長さで垂れ下がっており、危ないったらありゃしない。それに、その氷の重さに耐え兼ねて、大きな枝がちぎれて、そのおかげで電線が切れてしまい、停電になったりするのだから半端な状態でないことは分かってもらえると思う。

しかし、やはり南部は南部なのである。(f^^;)
毎年多大な被害を被るにも関わらず、特にこれといった対策がない。暑い夏のことばかり気にして、どうしても寒い冬のことなど忘れてしまうからかもしれない。

その『凍り漬』で発生する最も重大な問題は、交通機関の麻痺である。
町中が「氷の世界」(井上陽水ではないが)なのであるから、道だってカチンコチン。車社会のアメリカでは、これは致命的なのである。寒波が襲ってくると、ローカルのFMラジオから「エ~、〇〇小学校休校、△△中学校休校」と、延々と休校情報を流すのである。なぜなら、スクールバスでさえチェーンを持っていないし、アイスバーンでの運転の仕方を知らない連中ばかりなので、それこそ寒波中は事故ばかりなのである。

アイスバーンは滑る、という極当たり前の常識でさえ忘れ、ブレーキを踏んだら車は「いつものように止まる」ものであると思い込んでいる悲しい南部の人達、何台も「ア~アッ」っと発する私の声を無視して、図体の大きなアメ車が滑っていく様子を見たことか、….。(^^;)

しかし、そんな状況でも大学の授業はなんとかやろうとするのである。
何故なら、寮に大量の学生がいるのだから、その連中は基本的にその寒波の影響を受けないと思っているからのようだ。

 

ただ、先生たちは違う。
もちろん、大学の寮で生活しているわけではないので、アイスバーンの危険な道でも、そろり、そろりと運転してくるらしいのである。(大学の先生も危険な商売である。(^^;))

そんな中、大学が休校になることを望んでいる連中は、頑張って学校にやってくる先生のことなどお構えなしに、授業を阻止すべくスパイ大作戦を密かに実行するのである。(^^;)(^^;)

実は、私の行っていた大学は丘の上に立っていた。
丘の上ということは、学校の敷地内に入るためには「登り坂」を上がらなければならないということになる。『登り坂』+『寒波』…..さて、君が授業を阻止したいと思ったら何
をするだろう?

そう、水!
寒波がやってくると天気予報で報じられると、寒い中、学生達はパケツに水を入れて前夜、その坂にぶちまけるのである!(^^;)(結構重労働のはずなのに、こういうことだけは努力してやるところは日本もアメリカも学生は同じようである。)

当然翌日その坂は、見事に表面が氷で輝いているのである。
私を含め、勉強をしたくない連中はその「輝き」に狂喜乱舞!(f^^;)
普段は遅刻するほど朝弱いくせに、そんな日の朝だけは、しっかり目が覚めるのだから人間って不思議な動物だ。

しかし、そういう「ささやかな喜び」も、学校は無残にも打ち砕くのであった。学校側もさる者、学生が作った「氷の道」を除去する強力な「部隊」を準備していたのである。

 

そう、それは、黒人の「お掃除軍団」のおじさんたちだ。
なんとも、そのおじさんたち、かわいそうにめちゃくちゃ寒い朝っぱらから学校に呼び出され、必死になって道にはってある氷を除去するのである。文句も言わずに、黙々と作業をしているおじさんたち。なんか、奴隷時代を思わせる状況に、喜んでしまった私はちょっと申し訳けない気持ちに襲われた….。

 

でもマ~、何はともあれ、南部ジョージアも冬は寒いことだけは覚えておいてほしい。(^^;) そんじゃ!

                                                                                                             [2000年4月27日発行]

第31話  ルームメートの失踪

4年間の留学生活のうち、約半年間アパートでの生活も経験した。
そのアパートは大学のすぐ横にあり、2階建て。基本的に学生に貸すことを目的としていたアパートなので、部屋の作りはとても質素(f^^;)。2人の学生がシェアーできるように、入り口のドアを明けるとすぐに食事と料理が出きるスペースがあり、その共有スペースをはさんで両側にベットルームが二つあるかたちだった。もちろん、バス(実際にはシャワールーム)、トイレがあり、それらも共有する。

初めから友人二人でシェアーする場合もあるのだろうが、一般的には誰が入ってくるのか分からない。(もちろん、異性のシェアーはお互い望まない限りない(f^^;))。私の場合も、もちろん一人で入居したのでシェアーする相手が誰だかは、引っ越しをしてみるまで分からなかった。私はシェアーする相手が誰でも構わなかったので特に気にはしなかったが、シェアーの相手は黒人の学生だった。

彼は私が入居すると、すぐに自己紹介してくれて、大学でバスケットをしていると話していた。しかし、黒人の割には背が低く、私と同じくらい(173cmくらいかな)。私は、2mもあるようなバスケットの選手の中ではきっと大変だろうな~と感じたりしたが、そんなに人も悪くなさそうだったので、特に悪い印象も持たず、平穏にアパートでの生活をスタートした。

しかし、一度彼の部屋を見せてもらったが、荷物らしきものがほとんどなく、ポスターが一枚貼ってあるだけの殺風景な部屋だったのを記憶している。どちらかというと、留学生の私の方がステレオ(友人から譲り受けたものだけど…)や白黒テレビなんかを持っていて、裕福な感じだった。

シエアーといっても、部屋の構造上全く顔を合わせずに生活できることから、彼とのコミュニケーションはほとんど取ることがなかったが、同じ大学の生徒という安心感もあって、特に何も気になることはなかった。彼は結構愛想もよく、まだ入学して間もないと話していた。(そのとき私はすでに3年生だった。)

彼の方が先に住んでいたため、アパートの電気、水道の手続きは彼の名前で登録されており、わざわざ共有名義にしても意味がないので、彼のところに送られてくる請求書に基づき私が彼に現金を渡すことになった。もちろん、話し合いで電気、水道ともに折半。

引越したのは夏本番直前の5月。そのアパートは学生を対象に作っただけあって安普請で、風通しも悪く、入った当初から暑いな~と感じていた。でも、一応エアコンが使えた