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寄付と寄進

国連UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の営業(?)の人が、昨日、私の家に来ました。一言で目的を言うと、「難民支援の定期寄付」のお願いです。でも、どうも馴染めずお断りをしました。

第一に、国連職員の高待遇に対する反発です。ここ横浜でも、高級住宅街に外国人の国連職員がおり、給与も庶民からすると破格です。また様々な特典が付与されています。世界のリゾート地で開催される国連の会議に参加するために、高級ホテルに宿泊し、贅沢三昧しながら貧困問題を議論している矛盾。

さらに、どのような理由であれ、人件費を投じて各戸を訪問をしながら、寄付を求めることの「ちぐはぐ」さです。

托鉢(たくはつ)という文化が仏教にはありますが、それとはまったく違いますよね。

このように寄付の要求に対して違和感を感じている私でも、初詣ではご祈祷にお金を納めますし、お守りや破魔矢に毎年お金を使います。これも神社仏閣に対する「寄付」に近いものですが、それは快くするのに、なぜ今回のような「寄付」を求める活動には微妙な拒否感を感じるのでしょう?

それは、誰かに寄付をお願いされるからだと思います。

先ほどの神社仏閣との違いを考えてみると、最大のポイントは、お願いされて参拝している訳ではなく、自分が自主的に行きたいというところです。

なぜ自主的に参拝したいのでしょう?それは、シンプルに「私たち自身の健康・幸せ」のためだからです。もちろんその中には、より広い意味で、世界中の人も含まれるものだと思いますが、まずは「自分」があって、「ついでに他の人」もそこには含まれるのだと思います。つまり、結局は自分のため…。

「お前はケチか!」と叱られそうですが、マーケティングの視点からみれば、お客様にお金を使ってもらうためには、お客様から求められるサービスや、お客様が求める品物を提供しなくてはならないものです。ある意味、神社仏閣は、そのマーケティングが出来ているから、仮にお坊さんが「スーパーカー」を乗り回していても、少なくとも年に一回は私たちはお参りしているのです。

私にも、難民の人たちを救いたいという気持ちはあります。でも、しっくりこない。何か良い方法はないかと考えてみました、こんな方法はどうでしょう?

第一に、「寄付」という言葉は使わない、自ら進んでする「寄進」にする。

第二に、世界中の様々な宗教の総本山にお願いして、寄進の際に書いた名前のお札は、希望する宗教の総本山に届けられ祈ってくれる。さらに寄進されたお金は、寄付金としてさまざまな慈善団体に納められるというシステムです。

これなら、より多くの人たちから「寄進」をしてくれるような気がします。

島崎ふみひこ

異文化コミュニケーション研究所(R)

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